立喰師列伝


ここに一冊の本がある。
のちに角川書店から刊行される『犬狼伝説』のオリジナル版とでも言うべき日本出版社版である。
この本のあとがきにこう書かれている。

「周囲の人は困ったもんだで済ませていたが、間違いなく彼は本気だったのだ。
 枚数もないので詳細な記述は避けるが、己の手掛ける作品に隙あらばこそと出没させるだけでは飽き足らず彼等立喰いのプロの系譜を辿りつつ日本の戦後史を新たな視点から再編すべく企図された虚構の歴史ドラマ。

立喰師列伝立喰師、かく語りき。

立喰師列伝/全六巻』の企画を真剣に検討していたことや、その為の準備と称して架空の民俗学者・柳谷邦男名義による『闇の系譜――立喰師の世界』『立喰師騎馬民族学説』等の出版を目論で挫折したという噂は紛れもない事実である。それらの壮大にして奇怪な企画が実現しなかったのは、ただ単に彼の周囲に冒険主義的なプロデューサーが存在しなかったからに過ぎない(と彼は今でも信じている)」
押井守/あとがきより)


日付は1990年11月。
それから10年あまりが過ぎようとしている現在。
我々は肥大化した現実を虚構として捉えることを繰り返しながら、すでに新世紀を目前とした時代を生きている。
誰も想像しはしなかった。いや、ありえるわけはなかったのだ。
押井守が企画し、そして情熱を注ぎながらも日の目を見ることのなかったその企画 ――『立喰師列伝』。
かつては仕事にあぶれていることを公言してやまなかった「彼」――むろん押井守本人である――が新時代の旗手としてメディアで取り上げられるこの時代に、その存在自体がまさに立喰師と同様に(!)闇に葬り去られる(誰かの引き出しの奥底で眠ったまま消え去られる)はずだったこの企画が再び世に現れることを一体誰が想像したというのだろうか!?
まさか、なのである。しかし「事実」なのである。
様々な経緯、そしていくつもの偶然と転機を経て、いまここに日の目を見る連続活劇『立喰師列伝』。
その企画書をここに全文掲載する。

葬りさられたはずの歴史がいま闇から解き放たれる……。




短期集中連載・誌上連続活劇 『立喰い師列伝』

企画書
水際立ちたる技にて主に講釈し、銭を払わず。
これ立喰ものといふなり。往来をその生業の場とす。
不明にしてはばかること多し。

      • 荻生爽来『拾遺往生録』より

 立喰の起源は遠く中世の露店商にまで遡るといわれるが、出された喰いものに何のかんのと難癖をつけ、弁舌爽やかに主人を圧倒し、代金を払わずに去っていく立喰のプロ即ち『立喰師』の起源もそれと軌を一にしていると想像される。
 この不可解な男たちが、歴史に初めてその姿を現わすのは寛永年間、江戸は下谷池端の路上で二八そばを商っていた三代目時蕎麦寛右衛門をその祖とするのが現在の定説となっている。しかし時代を下るに従い、正史の陰に見え隠れする記述がその頻度を増すとは言え、基本的には彼等の生活様式は定住を拒否する流浪の民のそれであり、その全貌は異端の民俗学者・犬飼喜一の労作『闇の系譜/立喰師の世界』が出版されるまで殆ど知られることがなかった。しかし氏の研究も第二次大戦の勃発によってその継続をたたれ、特に戦後の闇市を新たな舞台として確立された第二期黄金時代、「立喰のビッグバン」と呼ばれるこの時代以降、高度経済成長期に至る期間は歴史の空白期となっており、近年この時代を支えた数名の立喰師に関する優れた個別研究によって、かろうじてそのミッシングリングの発掘が行なわれていたに過ぎない。不況に強く、特に歴史の結節点・転換期に傑出した人物を輩出してきたこの世界も、相対的繁栄を迎えた現在、その消息を尋ねるものとてない近代民俗学上のブラックホールと化している。……だが彼等は生きていた。その血脈を絶やすことなく。かりそめの繁栄に揺れる表通りに背を向け、あるいは路地裏の片隅、あるいは過疎に悩む地方都市の底深く潜み、遥かな蒼窮よりときおり舞い降りては人々を畏怖させるあの誇り高き猛禽のようにその足跡を残していたのだ。
 安寧な市民生活を営むものは知らずとも、屋台のタコ焼き屋から外食産業のエグゼクティブまで、およそ路上で食物を商う人々の間に彼等の噂が囁かれぬ日は絶えてなかった――。
  終戦直後の闇市から身を起こし、あの第二次黄金時代を支え、中興の祖と呼ばれながら、東京オリンピックの年、忽然とその姿を消していった「ケツネタヌキの竜」とその美しき愛弟子「ケツネコロッケのお銀」。外資系外食産業の進出に単身殴り込みをかけ、全米のファーストフード業界を震撼させた「ハンバーガーの鉄」。三大スローガンを逆手に取り、あの予知野屋を倒産に追い込んだ「牛丼の牛五郎」。関東大判焼き連合会の関西進出を完膚なきまでに叩き潰した「回転焼きの甘太郎」。
 吁嗚、食文化の闇に炎でその名を刻んだ異端の英雄たち!
 ……そして、あの天才の名を欲しいままにし、立ち喰い一千年の歴史が生み出した珠玉の名品とまで謳われた希代の立喰師「月見の銀二」の伝説がいま蘇る!!
異端の民俗学者 犬飼喜一の主著『闇の系譜/立喰師の世界』を主要文献として、古書・奇書・歌舞伎本・絵巻物等からの豊富な資料を引用し、民族学文化人類学の成果を踏まえ、犯罪学の豊富な蘊蓄を網羅しつつ、闇市から東京オリンピックに象徴される高度経済成長を経て、相対的安定の現代へ至る日本の戦後史の闇を駆抜けていったアウトローたち=立喰師の系譜を辿る人物評伝。もうひとつの(虚構の)戦後史。写真図版等、多数掲載。





第一夜「闇市からの出発」
 −月見の銀二

第二夜「国会正門前の女狐」
 −ケツネコロッケのお銀

第三夜「オリンピックの悪夢」
 −泣きの犬丸

第四夜「自己否定の悲喜劇」
 −冷やしタヌキの政

第五夜「予知野屋解体」
 −牛丼の牛五郎

第六夜「ファーストフードの帝国」
 −ハンバーガーの鉄とクレープのマミ

第七夜「アジアからの帰還」
 −中辛のサブ

第八夜「ディズニーランドの亡霊」
 −フランクフルトの辰

第九夜「師よ神話の人となるか」
 −月見の銀二、再び



『古近著聞奇集』『卓塵秘抄口伝集』『傀儡子鑑』『傾城矢柄暖簾』『立膳正要』
『立喰賦』『夢梁奇録』『八十八番職人歌合』

種山季弘 『詐欺師の楽天地』
渋沢辰彦 『薬味の手帳』
森木芳明 『中世の社寺と芸能』
杉田二郎 『近世寺院内の声聞師の研究』
赤井則夫 『路上の神様/近代の香具師たち』
長谷川伸一 『市井の神々』
梅原武 『立喰師騎馬民族説』
丸輪零 『暖簾の迷宮』
海野弘一 『戦後の秘密結社』
鵜之沢伸 『寸借詐欺のテクニック』
鈴木敏夫 『喰い逃げる理由』
他、多数。



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