石上三登志氏が死去 映画評論家
2012/11/12 13:50

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 石上 三登志氏(いしがみ・みつとし、本名=今村昭=いまむら・あきら、映画評論家)6日、骨髄腫のため死去、73歳。自宅は東京都品川区北品川1の30の12の101。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、茂子さん。

 広告会社に勤めながらミステリーやSF映画を中心に評論を行った。著書に「定本手塚治虫の世界」など。

石上三登志





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この項目は亡くなったばかりの人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。2012年11月11日 (日) 15:29 (UTC)貼付。(表示終了予定:2012年11月18日 (日) 15:29 (UTC))




石上 三登志(いしがみ みつとし、本名:今村昭、1939年1月3日[1] - 2012年11月6日)は、日本のCMディレクター。映画評論家。




目次
[非表示] 1 人物
2 来歴
3 映画 3.1 出演
3.2 脚本
3.3 その他

4 著書
5 訳書
6 脚注
7 外部リンク

人物 [編集]

電通でCM制作に携わる傍ら、1960年代から映画・SFなどの評論活動をおこなってきた[2]。大林宣彦監督の映画を中心に、俳優としての活動もある。

ペンネームの由来は、石の上にも三年[1]。美術監督今村力は、従兄弟[3]。

来歴 [編集]

東京都世田谷区池尻出身[1]。福島県立磐城高等学校、明治大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。

1961年にテレビCMプロダクション京映へ入社[4]。第一企画を経て[5]、1964年に電通へ移籍した[6]。勤務の傍ら、仁賀克雄、間羊太郎、山口剛、西田恒久らと「推理小説研究会」、曽根忠穂宮田雪らと同人誌『OFF』の活動をした[4]。1966年から、石上三登志ペンネームを使い始める[5]。

1970年代後半のSF映画ブームの頃には、「SF映画評論家」「スター・ウォーズ評論家」の異名をとる[7]。

1977年に創刊された『映画宝庫』の責任編集を筈見有弘増淵健らとともに担当[2]。

同じく1977年には東宝田中文雄からの依頼で『惑星大戦争』の企画に協力。1978年には電通の仕事として東映SF映画宇宙からのメッセージ』の広告を担当した。『キネマ旬報』に東宝のプロデューサー田中友幸論を執筆したことから、田中友幸との関係ができ、1978年に設置されたゴジラ復活会議に参加[8]。1984年に復活した『ゴジラ』に携わることになった[9]。

毎日映画コンクール藤本賞の審査員を歴任した他[2]、1997年開始の手塚治虫文化賞の審査員を第6回(2002年)まで務めた。

1999年に電通を定年退職。電通で最後に手掛けた仕事である川崎市に建設予定のテーマパーク手塚治虫ワールドの断念が2002年に発表される[10][11]。

2011年時点で、J SPORTS(スポーツ専門チャンネル)の番組審議会委員を務めていた[12]。

2012年11月6日、骨髄がんのために死去[13][14]。73歳没。





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