1975年(昭和50年)3月 奈良市立青和小学校卒業[23]
1978年(昭和53年)3月 大阪教育大学附属天王寺中学校卒業
1981年(昭和56年)3月 大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎卒業(23期)
1987年(昭和62年)3月 神戸大学医学部医学科卒業
1987年(昭和62年)4月 大阪市立大学医学部整形外科学教室入局[24]
1987年(昭和62年)7月 国立大阪病院臨床研修医(1989年6月まで)
1989年(平成元年)4月 大阪市立大学大学院医学研究科薬理学専攻博士課程入学
1993年(平成5年)3月 大阪市立大学大学院医学研究科薬理学専攻博士課程修了、博士 (医学)
1993年(平成5年)4月 カリフォルニア大学サンフランシスコ校 (UCSF) グラッドストーン研究所 (Gladstone Institute) 博士研究員
1996年(平成8年)1月 日本学術振興会特別研究員
1996年(平成8年)10月 大阪市立大学医学部助手(薬理学教室)
1999年(平成11年)12月 奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター助教授(動物分子工学部門)
2003年(平成15年)9月 奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター教授(動物分子工学部門)
2004年(平成16年)10月 京都大学再生医科学研究所教授(再生誘導研究分野)(2005年3月まで奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター教授兼任)
2005年(平成17年)4月 奈良先端科学技術大学院大学大学院バイオサイエンス研究科客員教授(2007年3月まで)
2007年(平成19年)8月 カリフォルニア大学サンフランシスコ校 (UCSF) グラッドストーン研究所上級研究員(Senior Investigator)
2007年(平成19年)9月 カリフォルニア大学サンフランシスコ校客員教授
2008年(平成20年)1月 京都大学物質-細胞統合システム拠点iPS細胞研究センター長
2010年(平成22年)4月 京都大学iPS細胞研究所長
2010年(平成22年)9月 奈良先端科学技術大学院大学栄誉教授
2012年(平成24年)6月 国際幹細胞学会(ISSCR)理事長
2012年(平成24年)10月 ノーベル医学生理学賞受賞発表
2012年(平成24年)12月 ノーベル医学生理学賞授賞式(予定)
生い立ち〜学生時代 [編集]
大阪府東大阪市出身。小学校時代から大学一回生まで、奈良県奈良市の学園前に居住[2]。父親は工学部を出て、ミシンを作る町工場を経営[3]。
大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎時代、父から医師になることを進められたが、将来の進路に迷っていた際に、徳田虎雄(徳洲会理事長)の著書『生命だけは平等だ』を読み、徳田の生き方に感銘を受けて医師になることを決意したという[4]。中学高校から大学2年まで柔道、大学3年からはラクビーをし[5]、高校時代に柔道二段を取得。高校では生徒会副会長も務めた。2011年現在はマラソンを趣味とし、奈良先端大時代は毎朝構内をジョギング、京都大学に移ってからも鴨川沿いを昼休みに30分走る[6]。
臨床医志望から研究者志望へ [編集]
神戸大学卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務。学生時代柔道やラクビーで10回以上骨折するなど怪我が日常茶飯事だったため整形外科の道を選んだが、他の医者が20分で終わる手術に2時間ほどの時間が掛かったり、点滴に失敗するなどし、指導医からは、「お前は「やまなか」ではなく、「じゃまなか」や」と怒鳴られ邪魔者扱いされ、「向いていない」と痛感したという[7][8]。重症になったリウマチの女性患者を担当し、患者の全身の関節が変形した姿を見てショックを受け、重症患者を救う手立てを研究するために研究者を志すようになった[9]。
iPS細胞の研究 [編集]
すぐに新しいことをやりたくなる飽きやすい性格であるといい[10]、整形外科の仕事を単調に感じてしまったこともあり、病院を退職、1989年に大阪市立大学大学院に入学。山本研二郎が教授を務めていた薬理学教室で、三浦克之講師の指導の下、研究を開始。当初はいずれ臨床医に戻るつもりだったという[7][8]。指導教官の三浦は、非常に優秀ながら時間を効率的に使い、適当な時間になると研究を切り上げ帰宅していた、誰にでも好かれるさわやかな性格だった、と述懐する[11]。論文"Putative Mechanism of Hypotensive Action of Platelet-Activating Factor in Dogs"(「麻酔イヌにおける血小板活性化因子の降圧機序」)を提出し、博士 (医学)の学位を取得。しかし、学位取得後は、どうやったら人の3倍研究できるかを考えて研究に従事。ほとんど寝ないでで研究を行うことも多く、ハードワークでは誰にも負けない自信があったという[12]。
科学雑誌の公募に片っ端から応募し、採用されたグラッドストーン研究所へ博士研究員として留学。トーマス・イネラリティ教授の指導の下、iPS細胞研究を始める。
その後、帰国して日本学術振興会特別研究員 (PD) を経たのち、日本の医学界に戻り、岩尾洋教授の下、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、その研究環境の米国との落差に苦しむ。米国と異なりネズミの管理担当者がおらず、ネズミの管理に忙殺され、またすぐに役立つ薬の研究をしなかったため「やまちゅう」と呼ばれ、周囲の理解を得られず、半分うつ病状態になった[7][8]。 基礎研究を諦め、研究医より給料の良い整形外科医へ戻ろうと半ば決意した中、科学雑誌で見つけた奈良先端科学技術大学院大学の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めるきっかけのために。」と考え、応募したところ、採用に至り、アメリカ時代と似た研究環境の中で再び基礎研究を再開した。奈良先端大では毎朝構内をジョギングして、体調管理に努めた[13]。
2003年から科学技術振興機構の支援を受け、5年間で3億円の研究費を得て、研究に従事。研究費支給の審査の面接をした岸本忠三は「うまくいくはずがないと思ったが、迫力に感心した。」という[7][8]。奈良先端科学技術大学院大学でiPS細胞の開発に成功し、2004年(平成16年)に京都大学へ移った。2007年8月からはカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所上級研究員を兼務、同研究所にかまえた研究室と日本を月に1度は往復して、研究を行う[14]。
iPS細胞の開発 [編集]
2006年(平成18年)8月25日の米学術雑誌セルに京都大学再生医科学研究所教授である山中と特任助手だった高橋和利(現、講師)らによる論文が発表された。論文によると山中らはマウスの胚性繊維芽細胞に4つの因子 (Oct3/4, Sox2, c-Myc, Klf4) を導入することで ES細胞のように分化多能性を持つマウス人工多能性幹細胞(iPS細胞:induced pluripotent stem cell)を確立した。
2007年(平成19年)11月21日、山中のチームはさらに研究を進め、人間の大人の皮膚に4種類の発癌遺伝子などの遺伝子を導入するだけで、ES細胞に似たヒト人工多能性幹(iPS)細胞を生成する技術を開発、論文として科学誌セルに発表し、世界的な注目を集めた[15]。
また同日、世界で初めてヒト受精卵から ES細胞を作成したウィスコンシン大学教授のジェームズ・トムソンも、山中のマウスiPS細胞生成の研究成果を基に、人間の皮膚に発癌遺伝子などの4種類の遺伝子を導入する方法でヒトiPS細胞を作製する論文を発表した[15]。
これらの功績により、韓国のソウル大学校教授黄禹錫の論文捏造によって一時停滞していた幹細胞研究が、一気に進むことが期待されている。アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュは、研究が発表された2007年11月21日、すぐさまウィスコンシン大学の研究に支持を表明するなど世界中で注目を集めた[16]。日本も、2007年11月23日、5年で70億円を支援することを決定した[17]。