kiratei2008-00-15

2004年8月前半



 中途半端な時刻に目が覚めちゃった。しらすおろしそばで第1食。つゆはヤマサのストレート昆布つゆ。


 第2食はブリ大根。ふくらぎのあらを使ったけど、こう呼んでもいいだろう。

 あらはよく洗い、熱湯をかけておく。大根は輪切りにして面取りし、米粒を加えて下ゆで。以上を昆布だし+日本酒+醤油+ショウガで落としぶたをして煮る。煮上がったら、1時間半ほど鍋止め(昼寝していた)。

 ごはんを炊き、ブリ大根を温め直して、いただく。大根に味がしみてうまいのなんのって。あっという間に完食。あらは安くてうまいなあ(パック山盛りで100円だった)。目玉も食べたよ。


 目玉はぷるぷるしてるんだけど、なかに固い芯があるんですよ。噛んでもつぶれないほど固い。これ、なんなのかなあ。(という話を「気持ち悪い」と感じる人は、あらを食べないほうがいいでしょう)

 追記。この「芯」は水晶体だとか。


 第3食はチャーハン。具はしらす、叩いた梅肉、大葉みじん切り。用心して梅干し1個にしたけど、もっと入れてもよかったかも。


めざましテレビ」(8/2放送)で映画「父と暮せば」の舞台あいさつの様子を見て、うかつにも父親役が原田芳雄であることを初めて知る。てっきり舞台と同じく、すまけいが演じると思い込んでたよ。

 わたしは演劇を見に行く習慣がないので、NHKの舞台中継で見ただけだが、父親役はすまけい以外あり得ないような気がする。原田芳雄だと、幽霊っぽくならないんじゃないかな。精力ありすぎて。まあ、見に行かないだろうから、べつにいいか。


 さて、ローズヒップブレンドティー飲んだから、もう寝ようかな。


めざましテレビ」(8/2放送)で、有名なスタントレーサーの息子「ロビー・ニーベル」が空母の戦闘機の上をバイクでジャンプしたという話題が報じられていた。この人がEvel
Knievelの息子だとしたら、正しい名前は「ロビー・クニーヴル」ですね。

 博覧強記の都筑道夫はこう書いている。


 スタント・オートレーサーのイーヴル・クニーヴルのように、Nの前のKを発音する場合もあるので〔……〕。(『昨日のツヅキです』新潮文庫

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア接続された女」邦訳のルビも、ちゃんとイーヴル・クニーヴルになっている。

 追記。気になったので調べたら、やはりイーヴル・クニーヴルの息子だった。


 どうも寝つけないので、部屋にアースレッドを仕掛けて、ショッピングモールまで外出。バックアップ用のCD-Rなど、消耗品を買い込む。


 気まぐれに、ショッピングモール内のペットショップに入ってみる。ケージのなかの子犬や子猫は、ぐったり寝ているか、あるいは客に背を向けて鉄格子の外をぼんやりながめている。

 収容所の独房にしか見えなかった。


 さて、できるかぎり起きていたのち、爆睡するかのぉ。


 長嶋茂雄監督、アテネ行きを正式に断念(8/2)。長嶋産業関係者も、さすがにこれ以上は引っぱれなかったか。ゆっくりリハビリに励んでください。

 アテネで実質的な指揮をとるのは中畑清らしい。「長嶋監督のために死ぬ気でやれ!」とか、そういう精神論に走りそうだなあ……。


 眠気覚ましの雑談。

 作者がおちいりやすい錯覚は「読者はオレの小説を綿密に読んでくれる」というもの。作者はひーひー言いながら苦心惨憺して執筆し、プリントアウト、初校、再校と最低でも3回は細かく読み直さなければならないから、読者も同じくらい緻密に読んでくれるはずだと思いがち。

 だが、読者とは、多かれ少なかれ、斜め読みするものである。自分が他人の小説を読むときのことを考えれば、すぐわかる。つねに執筆時と同様に集中して精読する人は、まずいないだろう。誰でもわが子のほうが可愛いからね。

 ところが、「どうせ斜め読みされるんだから」と開き直って手を抜いたり、いいかげんなことを書くと、てきめんにバレる。なぜなら、読者は複数存在するからだ。個々の読者はそれぞれ斜め読みするにしても、複数の読者に読まれると、結果として綿密に読まれることになり、ときには作者が気づかなかった点まで読み込まれてしまう。これはこわい。作者はこういう読者を畏れなければならない。


 それはあたかも、かの理想的不眠症を患う理想的読者に、そのおつむが沈むか泳ぐかのるかそるかするまでの永劫一夜、たっぷり百万兆回以上も鼻づら寄せて添い寝されることを宣告されているかのようである。ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク柳瀬尚紀訳、河出文庫

 この「理想的不眠症を患う理想的読者」とは、マスとしての読者、複数形の読者たちのことだとわたしは考えている。実際、ジョイスの作品は、マスとしての読者によっておそろしく緻密に精読され、論文も研究書も山ほどあるではないか。

 作者は複数形の読者たちを畏れなければならない。しかし、個々の読者について「この読みは深い」「これは読み間違い」などと選別しようとするのは、傲慢だし愚かしいと思う。

 読みに優劣はない。優劣はあなたの読みを書いたときに発生する。評論なり書評なりwebの感想文なりを公表した瞬間、あなたは書き手の側に移り、書いたものがおもしろいかどうか、有益かどうかをあなたの読者に判断される。以下同様に、連鎖がつづく。


 あー眠たい。でも、もうちょっとがまんしないとなあ。腹が減ったらダッタンそばを食べようかな。


 眠くなったから寝たんだけど、またも中途半端な時刻に目が覚めた。ピーカンだし、暑いし。


 眠気覚まし的雑談PART 2。

 海外文学の世界は、翻訳家主導型である。翻訳家が評論家、批評家、書評者を兼務しているケースがあまりにも多いため、どうしても翻訳家主導型になる。その結果、真面目な海外文学読者ほど、海外文学読者の理想型は翻訳家だと考えがちである。

 翻訳家はなによりもまず作品を理解することを第一目的とする。理解できなければ翻訳できないのだから、これは当然だ。また、翻訳家は「理想的不眠症を患う理想的作者」を想定する。作者は全能であり、自らの作品のすべてを完璧にコントロールしているという前提に立たなければ、細かく読み解こうという気にはなれない。

 しかし、翻訳家ではないし、将来翻訳家になろうとも思ってもいない人間は、べつに理解する必要はない。どうも、特に海外文学読者のあいだでは、翻訳家でないのにもかかわらず翻訳家めいた考え方をする人が多そうなのが不思議である。もっと好きなように読めばいいんじゃないですか。

 こういう翻訳系の評論や批評に関して、もっとも疑問に思うことは「これだと絶対に作者には勝てない」ということだ。

 わたしは翻訳系の殊能将之センセー論なら、どんなにすぐれた論客のものでも、必ず勝てる。なぜなら「オレはそんなことは意図していないし、書いた覚えもない。あんたの言うことは最初から最後まで作者の意図に反した謬論だ」と主張するだけでいいからである。どうして批評家の多くがこうした必敗の戦術をとるのか、理解に苦しむ。

「おまえら作者はたかが芸術家じゃねえか。オレたちが読み解いてやらなくちゃ、自分がなに書いてるかさえわかんねえくせして」

 という批評家がもっと大勢あらわれれば、世の中おもしろくなると思うのだが、どうか。かつて柄谷行人はどこかで「批評家は頭よくなくちゃいけない。頭いい以外にどうやって作者に勝てるんだ」と語っていたが、これはそういう意味だろう。

 わたしは翻訳系の人たちは、ひそかに「早く作者に死んでもらいたい」と思ってるんじゃないかと疑っている。死んじゃったら、野蛮な反論を受けることはないからね。「オレはこれだけ精読したんだから、これは作者の意図に忠実な読みだ」と主張できるわけ。


もはや眠いんだかそうじゃないのか、暑いんだか肌寒いのかよくわかんなくなってきてる。熱中症かなあ。室内で熱中症にかかるケースが多いらしいし。