あああ

 

σ(^_^) は、常に、
 何か、創作、
   何か、創造、
     何か編集していないと生きられない人間なのです。

皇国の守護者

戦史

皇紀568年
  • 01.14 『 北領紛争 』
    • 帝国軍艦隊、皇国北領奥津湾に来襲。
  • 01.28 『 天狼会戦 』

皇国軍、天狼原野に銃兵七個旅団・騎兵二個聯隊・砲兵旅団二個旅団を展開。近衛衆兵第五旅団ならびに独立探索剣虎兵第十一大隊は後方で待機。
帝国軍22,000人、皇国軍(北領鎮台)30,000人にて午前第九刻に天狼原野にて会戦。しかし、二刻を待たずして皇国北領鎮台は壊走。皇国側の兵員損害は約12,000名とされる。その後、態勢の立て直しに6日を要する。
02月03日
北領首邑・北府陥落。北府には軍の糧秣庫などの軍の施設があったため略奪され、街は悲惨な目に遭う。北領鎮台残存兵は美名津湾へ向けて転進。
02月09日
第11大隊第二中隊、大隊本部に合流。
午前第七刻: 第11大隊、殿軍として独立砲兵旅団渡河完了まで真室大橋の防衛任務に就く。この時点で11大隊の総兵力、兵827名に虎85頭。帝国軍は増援を得て総兵力四万まで増強。
午前第十二刻過ぎ: 第二中隊、真室大橋の防衛のため敵情収集任務に就くがその際若菜中隊長を含む四名が戦死。
後退中、怪我をした天龍・坂東と遭遇。<大協約>に基づいて治療を行う。
午後第七刻: 大隊本部に合流後、正式に第二中隊の中隊長に任命される。
第11大隊、真室大橋防衛のため伏撃作戦を決定。
02月11日夜半
第11大隊、帝国軍約二個旅団に対して夜襲伏撃を決行。帝国軍三個大隊を壊滅させるも、第11大隊も伊藤大隊長含め529名、虎80頭が戦死。生き残った将校(4名)の中で最上級であった新城中尉が指揮を代行し、第11大隊は撤退。
02月13日
新城直衛中尉、野戦昇進により大尉任官。大隊指揮権を発動し独立捜索剣虎兵第11大隊にて遅延戦闘開始。
02月19日
第11大隊、美名津湾北部で小苗防御線を野戦築城、防衛戦闘開始。同日午後第二刻、真室穀倉を砲撃予定だった皇国乙巡「大瀬」遭難。生存者無し。
02月23日
北領鎮台主力、美名津転進海岸より北領を脱出。
02月24日
第11大隊、帝国に降伏。戦闘終結時の大隊の生存者は、新城直衛率いる予備別働隊十六名の(重傷者含む)と剣牙虎2匹(千早、王護)のみ。尚、その後第11大隊は俘虜として帝国摂取後の北府に逗留。労役に就く。
4月中旬
新城がユーリアに謁見する。
4月下旬
船便回復。第11大隊は俘虜返還の第1陣として全員帰国。真室において衆民に“敗残兵”と罵られ、新城は北嶺にて初めての傷を負う。
5月末
新城直衛(昇進して少佐)、近衛衆兵鉄虎501大隊隊長へ転属。大隊の定員は将兵1,500名、剣牙虎155頭、編成途中で騎兵1個中隊を追加。
07月02日 『アレクサンドロス作戦』
帝国軍『アレクサンドロス作戦』を実行。皇国本土北の龍口湾へと集結した艦隊が、龍口湾の制海権奪取及び軍施設へと砲撃開始(作戦第1段階)。同日午後、皇国軍監本部は龍州鎮台を軍に改組する旨を通達。皇国全土の鎮台より反撃部隊が出発し、龍口湾を目指す。
07月03日
帝国軍第一派、皇国本土への上陸開始。内陸進出戦闘にて5,000名を越える死傷者を出しながらも、日没までに6里の縦深を確保(作戦第2段階)。尚、この防衛戦闘での皇国軍の損害は約3,000名。
07月04日
帝国軍は龍口湾海岸線に沿って南北に戦線を拡大し、支援部隊の上陸を開始。また、占領した海岸中央部に兵站集積・司令部機能を集中した海岸堡を設置(作戦第3段階)。この後は龍州鎮台軍との戦果拡大戦闘に入る。
07月13日
反撃参加部隊、龍口湾沿岸戦線に到着し足並み揃う。この反撃部隊には新城直衛の近衛衆兵鉄虎501大隊も含まれている(但し予備軍)。各隊を近衛総軍・集成第2軍・集成第3軍・龍州軍に選別。この時点での帝国軍戦果拡大地域は、北部に於いて最大28里、南部に於いては最大18里の縦深を確保。
07月14日
日没を待って反撃参加部隊は発起線へ移動開始。夜明け前の午前第三刻をもって同時反撃作戦を実行。集成第3軍が順調に戦線最下部(南)を進撃するも、他の軍は膠着状態に陥る。
同日午後第1刻、第501大隊は龍兵による索敵を開始し、集成第3軍上空に帝国軍龍兵部隊を確認。この帝国龍兵部隊の空襲によって集成第3軍の前進は停止する。
同日夕刻、第501大隊へ戦闘参加命令。近衛衆兵第5旅団へと合流し、旅団長の美倉准将の指揮下へと入る。
同日深夜、第501大隊を主力とした約5,000名の夜間浸透突破作戦開始。近衛衆兵第5旅団の動きにあわせ、集成第3軍の一部(独立捜索剣虎兵第11大隊)が夜襲を開始。
07月15日
同日午前第4刻、帝国軍第21兵師団第1旅団深部にて第501大隊の俘虜を獲し、警戒態勢発令。独立剣虎兵第11大隊はこの時敵本営を発見し、密集突撃体勢により突撃攻撃を敢行するも、その後帝国胸甲騎兵と龍兵による爆撃にて第11大隊は敗走を余儀なくされる。
帝国龍兵爆撃終了に合わせ、第501大隊は敵本営周辺に攻撃開始。帝国本営もそれに対抗して大隊縦列を組んで第501大隊へと前進。第501大隊は、第11大隊に一度だけ援護射撃を向けるもそのまま本営へと前進し、その援護を受けて第11大隊は撤退開始。
本営戦闘にて第5旅団長美倉准将は戦死。代行として新城直衛直営となるが、帝国軍が予備拘置していた騎兵集団の翼側迂回突破成功による集成第2軍壊滅の為、龍州軍司令部より全軍撤退命令が発令。浸透突破部隊は敵本営を目の前にして後退。この時より全龍州展開軍は撤退行動に移る。
07月18日
帝国軍、部隊を再編成して追撃を開始。戦果拡大戦闘を続行。
07月21日『六芒郭城塞戦』
新城(当時点での新城隊兵力は、各地の落伍兵を加えた約9,000名)と帝国軍が交戦するも、帝国軍は伏撃を受け銃兵2個旅団と騎兵2個大隊が壊滅。以降それを受けた帝国軍全体の行動が慎重になる。
その後、皇国陸軍軍監部により新城へと伏龍平野西端に位置する要塞・六芒郭を基点とした敵軍行動遅滞作戦命令発令。また同時に、新城少佐は六芒郭臨時防備部隊司令を拝命。これ以降手持ちの兵力を新城支隊と呼称することが許される。
07月23日
新城支隊、六芒郭へ入城。未完成であった六芒郭の補修・補強と共に遅滞作戦開始。
08月08日
帝国軍、六芒郭に接触するも突破ならず。新城支隊は遅滞作戦を続行。これ以降の約2ヶ月(東方辺境領姫が到着するまで)は順調に遅延を行う。
09月16日
帝国軍本隊行動を開始。
09月下旬
東方辺境領姫、戦場・六芒郭周辺へ到着。作戦を立案し、10月08日までに要塞陥落を厳命。
10月02日
東方辺境鎮定軍が六芒郭に向け総攻撃を開始。この日の被害は、皇国軍戦死1,007名、負傷者(軽傷者は除外)970名。帝国側被害は戦死・負傷あわせて14,000人超。帝国側では東方鎮定戦初めての数的敗北を喫する。
10月03日
払暁後、帝国軍は再度総攻撃を開始。順調に防衛が進むも帝国軍第一教導戦闘龍兵団の攻城砲弾(ユーリアのアイデアとされる複合運搬に因る)によって東北突角堡が機能停止。本郭要塞司令部も完全に破壊され、本郭東南面も直撃により半壊。新城支隊は南突角堡(六芒郭未完成部分)より撤退し、通行橋を破壊して最終防衛行動へ移行。同時に帝国軍直轄砲兵、第15重猟兵師団が追撃開始。なお、南突角堡を放棄する際の最後の砲撃によって鎮定第2軍団の指揮官であるアラノック中将が戦死。
その後雨天。乗じて新城(予備隊主力1,600名・剣牙虎20頭)は逆襲を開始、東南突角堡残存砲台援護のもと夕刻の帝国軍攻撃停止まで耐え抜く。予備隊残存約1,400名、剣牙虎14頭まで減少。残存砲台は全滅。
夜間、城内にて夏川中尉が銃殺に処される。罪状は敵前逃亡罪。
同日昼過ぎから、後方虎城に展開した皇国軍が一部前進。六芒郭救出作戦を開始する。帝国軍はカミンスキィ率いる第21猟兵師団を午後第5刻に虎城付近に派遣開始。同日午後第8刻を以って両軍の戦闘は激化し、その後帝国軍は皇国軍を誘致しながら後退を開始。
10月04日
日付変更時付近に帝国軍からバルクホルン少佐が使者として来訪。降伏勧告が行われるも新城はこれを謝絶し、一刻後に直接会談が両軍陣中央の設営天幕にて行われる事となる。両軍指揮官における交渉が行われるも不調に終了。
指揮官会談中に六芒郭へ後方の駒州軍司令部より第21猟兵師団を誘引する旨の導術連絡あり。
午前第3刻を期して、新城支隊全軍は帝国軍本営奇襲を開始。尚、六芒郭は全軍進撃後半刻を以って爆破。
同刻、帝国軍本営にてラスティニアン少将が一個大隊を率いて本営を包囲、辺境領姫を拘束に動く。
新城支隊、敵本営に突入し、謀反により被包囲中の東方辺境領姫とクラウス少将を救出(?)。辺境領姫は自ら下ったとされる。
混乱に乗じて新城支隊は帝国包囲網を突破し、戦場を南方の虎城へ向け突破を敢行。駒州軍との合流を図る。
10月05日
〈帝国〉マランツォフが鎮定軍指揮権発動により帝国軍を集結させ、虎城へ向け軍を再編。その間に新城支隊は皇都へ向けて撤退を開始。
10月下旬未明
ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナは、蛮族に降った咎により皇籍を抹消。東方辺境副帝家も廃絶とされる。東方辺境領は帝室直轄とされる。
11月19日
新城支隊、皇都へ帰還。その後解散。近衛衆兵鉄虎501大隊の帰還者は将兵372名、剣牙虎47頭。
12月05日
マランツォフ〈帝国〉元帥による冬季攻勢始動。
12月08日
〈皇国〉水軍第五駆逐隊による龍口湾奇襲によって、〈皇国〉水軍は世界水軍史の中でも稀に見る一方的な戦果を得る。
12月11日
新城直衛、前線配置への復帰を近衛総監部に出願し、翼竜による公用便の配達任務を拝命。その後街を散策中に西原信英陸軍大将、西原信置陸軍大佐(虎城で銃殺された夏川中尉の父兄)と邂逅する。

  • 12.13 『 虎城 防衛戦 ( 冬季 ) 』


 鎮定第1軍第15猟兵師団(シュレヒト准将率)と
  第21猟兵師団(カミンスキィ少将率)は虎城へ向けて攻撃を開始し、虎城山地麓(主陣地線)の前衛である独立捜索剣虎兵第11大隊(佐脇俊兼少佐率)と接触・交戦。〈帝国〉第801独立平射砲中隊(試作長砲身平射砲装備)の攻撃により〈皇国〉軍虎城防衛隊左翼は崩壊の危機に陥るも、同時に第801中隊は火点集中を受け全滅。なお、虎城内で指揮中であった駒城保胤中将が過労と風邪により昏倒し、公用便の配達任務中であった新城直衛少佐が中将の命により指揮権を与る。
前衛に配備された砲兵は後退を、同時に前衛右翼独立第316・365大隊、左翼第11大隊は砲兵後退まで戦線維持を継続するようにと方針を発令。尚発令内容は「全砲兵はただちに主線陣地と合流すべし。前衛は別命あるまで可能な限り抗戦を継続せよ。これは軍一般命令である」この発令により第11大隊は陣地固守を選択するも第21師団によって蹂躙され壊滅。主陣地へ帰還できたのは15名のみ(佐脇少佐含む)。その後第21師団は第11刻過ぎに進軍を再開し、日没まで軍を進めて8里先の小村・渡端にて第15師団と合流再編。
午後第7刻過、〈皇国〉軍は合ノ瀬の西燕宗涼天寺にて指揮官召集の上会議。現時刻から主陣地を棄て撤収準備を開始し、第10刻を以って第二次予備陣地へ後退する旨が通達される。またこの時、第7銃兵旅団長の利松准将と、帰還してきた第11大隊長の佐脇少佐が「狂を発した」とこの場で後送されている。

  • 12.14

早朝、第二次予備陣地の〈皇国〉火制地域内にて〈帝国軍〉第15師団が総攻撃の為前進するも、これに合わせて駒州第3砲兵旅団(北翼)と後備砲兵第6旅団(南翼)の総数約800門の火砲が砲撃を開始。なお〈皇国〉陸軍が野戦における火力優越下で戦闘突入するのはこの戦争初。この時「砲兵で砲兵を叩く」という発想の転換も生まれている。また、この作戦時中に駒城保胤中将が軍務に復帰。
総攻撃に入っていた〈帝国〉第15、21師団の被害甚大。〈帝国〉はこの後の敵予備部隊突入に備えて両部隊の騎兵を運動部隊として再編し、バルクホルン少佐を指揮官として任命。部隊名称は独立騎兵団〈バルクホルン〉。
新城少佐は指揮権を返上し、予備隊を率いて攻撃を行う準備に入る。臨時部隊名は〈別動新城戦隊〉。この時翼竜にて予備隊集結地点へ向かう途中に〈帝国〉翼竜と交戦。竜士(翼竜の操縦士)死亡により制御不能になった翼竜と共に落下するも、天竜の坂東に救われて部隊へ向かう。なお翼竜は死亡。
これは〈大協約〉世界初の翼竜同士の戦闘である
午後第4刻半に戦闘開始。〈バルクホルン〉騎兵団と〈別動新城戦隊〉は互いに手の内を読み合い、新城は撤退を命令するも騎兵第9聯隊は独断により突撃し潰走。〈別動新城戦隊〉はそのまま内王道を東進し、敵砲兵と輜重段列を後方より攻撃。

  • 12.15

〈帝国〉鎮定第1軍敗走。〈帝国〉側の損害総数は戦死約4800、重傷約5000、軽傷約6000、損害の大部分は第15師団のものである。また、人的被害も宛ら兵站・砲・車両等も被害が大きく、危機的な状況へ陥っている。
これにより帝国軍は完全な冬営を余儀なくされる。

  • 12.16

新城、坂東にまたがり皇都へ帰還。なお政治的な理由により、新城は虎城では「何もしていない」という事になる。実仁中将と謁見後、駒城家上屋敷にて駒城篤胤に守原への暗殺を示唆し、これを禁止される。

  • 12.18

〈帝国〉軍は翼竜で皇都上空から伝単(ビラ)を撒布するという情宣活動を実行。ちなみに伝単の内容は「皇都ノミナサン 虎城テノカチ戦 オメテトウゴザマス!シカシ、〈帝国〉ハ負ケマセヌ。疲レテ、休ンテイルタケデス。春ニハ、カナラツ勝チマス。ミナサンハ良ク心得テ、〈帝国〉臣民トナル準備ヲトトノヘテクタサイ。ソレカラ、ヒトツ教エテアケマス。虎城テタタカツタシレイカンハ駒城ノヒトデナイデス!ミナサンノ仲間ノ新城直衛デス!イッパイ、誉メテアゲマショ 〈帝国〉軍司令官」というものであった。
同日夕刻、守原英康、海良末美、宮野木和麿、舞潟章一郎が会合。
12月19日
シュレヒト准将が今回の戦闘の責任を負わされ銃殺。また、(恐らく守原の手による)休戦協定が鎮定軍に届けられる。
13月3日
皇都にて龍洲軍凱旋式が挙行される。新城は近衛衆兵鉄虎501大隊および新城支隊指揮官として参加。
13月4日『皇都内乱(護州乱)』
早朝、背洲後備軍を中心とする守原派陸軍約16,000名が皇宮および皇都中枢部を制圧する。皇都周辺の部隊の大半は事態を静観するが、近衛嚮導聯隊(新城指揮)および近衛衆兵鉄虎501大隊(藤森指揮)は皇都へ向けて進撃開始。501大隊は守原定康指揮の反乱軍中最強の運動部隊を拘束。近衛嚮導聯隊は古賀発案の龍挺隊作戦により近衛嚮導聯隊の一部が皇宮に直接侵入、皇主の確保に成功。守原派の要人として守原英康、海良末美、宮野木和麿らが死亡し、守原派の蜂起は失敗に終わる