中御門家
鎌倉時代中期、勧修寺経俊(吉田経俊)の四男、経継により創設される。また、経俊の弟である吉田為経の子・経任も「中御門」の家名を名乗っている。後嵯峨天皇の腹心であった経任在世中は、従兄弟である経継系よりも羽振りが良かったものの政敵も多く南北朝時代初期頃に断絶している。


中御門経之 ( 従一位大納言 )
幕末、明治維新期の経之は、国事に奔走し、議定、会計事務総督、留守長官などを歴任した。 1884年明治17年)7月7日伯爵の位を賜り、更に 1888年明治21年)1月17日侯爵に陞爵した。経之の子、経明には嗣子が無く、萬千子(まちこ)が中御門家を相続、婦人が戸主となったため、侯爵位を返上したが、分家から経恭(つねやす)を養子に迎えて、改めて旧に復した。