2011-09-01 00:43:17


  サラリーマン時代、真夜中まで残業しているときに、
  ふと「こうして歳を取っていくんだなあ」と呟いたら、

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  その場にいた同僚たちから怒られた。


  言ってはならない一言だったらしい。


  今日で一年の三分の二が過ぎだと知って、ふと思い出した。



ものかきへの長い道・第一回

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 今でも「小説現代」という雑誌で行われている「星新一ショートショートコンテスト」という企画があります。一般から原稿用紙10枚程度の作品を募って、優秀と認められた作品は掲載されるんですが、そもそもこの企画が始まったのは1978年のことでした。講談社文庫の「推理・SFフェア」のイベントとしてショートショートを募集し、それを星新一御大が審査して、優秀作に選ばれるとハワイ旅行、そして入選作までを含めて単行本化されるというのが売りになっておりました。


 当時僕は大学生でした。昼間はバイト、夜は国立大学の電気工学科に通うという典型的な苦学生をしながら、生涯に一冊でもいいから自分名義の本、それも長編のミステリを世に出したいと思い続けていたのです。
 ただ、いきなり長編を書くというのは、かなり難しい。ましてやミステリなんて構成力がなければ書けるわけがない。ですからこのショートショートのコンテストというのは、腕試しにはもってこいの企画に思えたのです。400枚の長編に比べれば10枚なんて軽いもんだ、と思ってね。で、自分でもいい出来だと思った作品を送ったのでした。


 ところが、これが落ちちゃった。優秀作はおろか、入選さえしなかった。講談社からは「応募ありがとうございました。作品総数5433編。その中から次の十編が入選作となりました」という紙切れ一枚が、封筒に入って送られてきただけだったのです。
 最初は少し落ち込んだりもしましたが、翌年コンテストの第2回が行われることになったので、今度こそはと意気込みも雄々しく、以前以上の自信作を送ったのです。
 ところが、これもボツ。やっぱり入選さえしなかった。
 10枚の作品で認められないようじゃ、とてもじゃないが長編なんて本に出来るわけがない、と僕は激しく落ち込みました(今になってみると、こいつはとんでもない勘違いなんですけどね。長編小説が難しくてショートショートが楽チンなんてことは、絶対にない。それぞれ別の才能が必要なんですよ。まあ、当時の僕にはそれがわからなかったわけなんだけど)。


 その翌年、正式に「星新一ショートショートコンテスト」と銘打たれた第1回目の募集が行われました。今度も駄目かもしれない、そんな危惧は抱いたものの、やはり諦めきれないので今度も作品を送りました。しかし今回は、前2回ほど自信がある作品ではありませんでした。今までの奇抜なアイディアを軸にしたものではなく、文体と雰囲気だけで勝負するような作品だったのです。それしか思いつかなかったんですね。
 作品を送って数ヶ月後、ある晩大学から帰ってみると、注文しておいた「機動戦士ガンダム設定資料集全5巻」の入った段ボール箱と一緒に、白い封筒が届いていました。
 今度もまた「ありがとうござました」かな、と思いながらも、少しばかり緊張しながら封を切りました。今回は文章が違いました。


「前略 このたびは第一回<星新一ショートショート・コンテスト>にご応募いただき、まことにありがとうございました。星新一先生のご審査の結果、あなたの作品「帰郷」が優秀作と決定しました。おめでとうございます。
(中略)
 なお、最優秀作、優秀作、入選作の作者名は二月中の新聞紙上で発表いたします。最優秀作品、優秀作品は四月刊行創刊予定の雑誌「ショートショート・ランド」に掲載し、さらに、入選作とともに、単行本「ショートショートの広場3」に収録刊行させていただく予定です
                                   講談社文芸図書第三出版部」


 よく10年前の手紙の内容を記憶しているなあ、と思われるかもしれませんが、実は今でもこの手紙は取ってあるんです。たぶん一生、手放すことはないでしょう。


 手紙を受け取った数日後、講談社から電話がかかってきました。最優秀作と優秀作の人間を集めて東京で授賞式をやるので、出席してほしいとの連絡でした。
 緊張して言葉がうまく出せないでいる僕のことを勘違いしたのか、相手は「大丈夫です、交通費は出しますから」なんて言ってくれました。その後で「行きます」と答えちゃったんで、まるで僕が金を惜しんで出席を渋っていたように思われたのではないかと、それが今でもちょっと気になってます。


 ともあれ、こうして僕は東京へと旅立つのですが、そこには僕の一生を変えてしまった悪魔が待ち構えていたのでした。それは・・・・・・。


 と、長くなったので、このへんでやめておきます。続きはまたということにして、小説家になりたいひとに僕の得た教訓を。


「三度目の正直は、ある」
「書け。いくつも書け。そして挑戦しろ。何度でも挑戦しろ」
ガンダムは第一作でやめるべきであった」

ものかきへの長い道・第二回

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(第一回のあらすじ)
 三度目の正直でショートショートコンテスト優秀作に選ばれた太田忠司は、勇躍東京へと向かう。さて、純真な名古屋の大学生が大東京で出会った「悪魔」とは・・・・・・。


 1981年3月28日。この日生まれてはじめて僕は東京の土を踏みました。大学4年のときです・・・・・・という話をすると、地元の人間は奇妙な顔をします。
「名古屋じゃ中学の修学旅行で東京に行っとるがね。それなのに、なんであんた東京に行っとれせんの? 修学旅行さぼったんか?」
 こういう質問をしてくるのは、僕より年上か年下の人間なんですよね。僕と同年代の名古屋人なら、「うんうん、そうだろうなあ」と頷いてくれるはず。
 実は当時、巷では「東京大震災は明日起きてもおかしくはない」と偉い学者さんが言ったとか言わないとかで、かなり話題になっていたのでした。それで学校側は「今東京に行くのは、危ない」と判断したんでしょう。僕たちの頃だけ修学旅行のコースから東京が外されていたのです。いやほんとの話。


 それはともかく、その日が東京初体験でした。東京駅に降りてさっそくコーヒーを飲み「こ、これが東京のコーヒーかっ!」と感動したのを覚えています。味は変わらなかったし、名古屋よりずっと高かったんですけどね(当時名古屋ではコーヒー一杯250円。ところが東京では300円もした!)。
 ショートショートコンテストの授賞パーティ会場は、有楽町の交通会館にある交通大飯店という所でした。講談社から送られてきた地図を握り締め、迷わないように迷わないようにと細心の注意をはらいながら目的地に向かいました(東京―有楽町間ひと駅分が、僕にとってはすごく長い距離だった)。


 なんとか店に辿りつくと、広々としたパーティ会場がしつらえてありました。受付の人に名前を告げ、開場時間までロビーあたりでぼんやりとしていると、僕と同じように不安げな顔つきの若者たちが、三々五々と集まってきました。受賞者は、みんな僕くらいの年齢が多かったようです。
 そして授賞式がはじまりました。司会の人から「今回の応募作品総数は5225編。そのうち最優秀作三編と優秀作十編が選ばれました。最優秀作、優秀作に選ばれる確率は0.25パーセント。ちなみに昨年夏の甲子園大会に出場できたのは全参加校の1.63パーセントでしたから、皆さんは高校野球以上の難関を突破されたことになります」と言われ、あらためて「こいつは、とんでもないことだ」と思いましたね。
 その後、受賞者全員に書状と記念品の授与。記念品は受賞作品が印刷された単行本一冊。表紙は和田誠さんの直筆で、分厚い本の中は受賞作の後ろが真っ白になっていました。
「残りのページは、これからの作品で埋めてください、という意味です」
 こう言われて舞い上がらないほうがどうかしている。僕は舞い上がりました。
 続いて星新一さんの選評。ここで僕は生まれてはじめてプロの作家と相対したわけですが、最初の印象は「で、でかい・・・・!」
 星さんは、ほんとに背が高い。頭もでかい。そのでかい体を振り子のように揺らしながら、いくぶん聞き取りにくい発音でぼそぼとと喋るのです。もとよりあっちの世界に行ってしまった僕には、星さんの言葉など聞き取れるはずもありませんでした。
 式の後は立食パーティとなり、他の受賞者や編集者、そして星さんとお話することができました。なんだか一気に業界人になったような気分でしたね。編集さんからは「いいものが書けたらどんどん送ってください。良ければショートショート・ランドに掲載しますから」と言われたし。
 編集さんと受賞者以外にも何人かいたようですが、どんな人間なのかよくわかりませんでした。あの手のパーティでは、誰なのかよくわからない人で満ちあふれているものなのだ、ということは、後の経験からわかってきましたけどね。それ以上に驚いたのは綺麗な女のひとがたくさん会場にいて、お酒や料理を持ってきてくれたことでした。「講談社の女性編集者って、美人が多いんだなあ」なんて感心してましたけど、あの人たちはコンパニオンさんだったんでしょうね。


 やがてパーティが終わると、編集さんに連れて行かれて二次会へ。場所は有楽町だったか新宿だったか、よくわかりません。とにかくスナックでした。
 ここでもうひとつ恥ずかしい告白をしますと、僕、スナックなるものに入ったのもこれが初めてだったのです。大学じゃバイキング・スタイルのディスコ(あの頃はアラベスクとスタイリスティックスとEW&Fだったよなあ)しか行かなかったのです。だからこいつもすごいカルチャーショックでしたね。なんたって、煙草をくわえるとサッとライターの火をつけてくれる。手洗いにいくとお姉さんが待っててくれてお絞りを手渡してくれる。こんな経験、したことない。


 僕だけではなくて、他の受賞者たちも完全に舞い上がっておりました。その中のひとりが突然、感極まったように言いました。
「僕、生まれてからこんなすごい経験、したことないですよお」
 そのときです。それまでぼそぼそぼそと話をしていた星さんが突然彼のほうを見て、星さん自身が書くショートショートによく登場する悪魔のような笑みを浮かべると、こう言ったのです。


「きみぃ、作家になればこんなこと、毎晩できるんだよお・・・・・・」


 思えば、この言葉を聞いた瞬間、僕の人生は変わってしまったのでしょう。
 まさにそれは、悪魔のささやきであったのです。


○今回の教訓
「東京大震災は明日起きてもおかしくはないんだぞ」
「非東京人が初めて東京に行く前には、あらかじめ免疫をつけておくべし」
「この世に、悪魔は、実在する」

ものかきへの長い道・第三回

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(前回までのあらすじ)
 自作がショートショートコンテストの優秀作に選ばれ、授賞式に臨んだ太田はいきなり業界の真っ只中に放り込まれて舞い上がる。さらに彼を魔窟にのめり込ませるような悪魔の言葉・・・・・・前途ある(あったのかなあ)青年は、こうして道を踏み外したのだった。
 しかし、そう簡単にプロのものかきになどなれるものだろうか?


 受賞を知った時点で、僕はすでに次のショートショートを書き上げておりました。
「いい作品が書けたら載せてあげよう」という編集者の言葉を聞いて、すぐにその作
品を送りました。
 これが、即採用になってしまった。ショートショートランド創刊号に続いて自分の作品が連続掲載されたのです。それが「ショートショート小劇場」で公開している『保健室』という作品です。
「2号続けて載るのは、太田さんだけです」と編集者に言われ、これはいける、と思いましたね。このまま連続掲載してゆけば、そのうち単行本になって店頭に自分の本が並ぶ日も遠くあるまい、なんて妄想を抱いてしまいました。
 それからは毎月のようにショートショートを書いては編集部に送り付けました。


 ところが、それからぱったりと掲載されなくなってしまった。どんなに書いてもボツの連続だったのです。
 雑誌には他のコンテスト受賞者の作品が毎月のように載りました。中にはかなりのペースで作品を載せている人もいます。僕との差は広がるばかり。
 僕はかなり焦りを感じながら、作品を送り続けました。大学を卒業し、会社の寮に入っても、同室の人間に隠れてこそこそと書き続けたのです。
 それでも掲載率はよくありませんでした。たまに載せてもらえることはあっても、確率としては3割いかなかったでしょう。
 編集側の反応も、不安の種でした。送っても駄目だったら何の音沙汰もなし、良ければ「次の号に載せます」という連絡だけ。僕と編集者との繋がりは、そんなものでしかありませんでした。あんまり反応がないんで「郵便事故で作品が届いていないんじゃないか。届いていても、読んでくれていないんじゃないか」と疑心暗鬼に駆られるほどでした。
 思い余って上京したこともあります。そのときの話をしましょう。
 講談社の建物を見たことのある方はわかるでしょうけど、あの石造りのビルは威圧感があるんですよね。あそこの薄暗くて、むやみに天井が高い応接室で待っていると、自分がとんでもなく小さな存在に思えてきて、そのまま帰ってしまいたくなる(今でも、ちょっと苦手ですね)。それでも我慢しながら待っていると、やがて編集者が三人ほどやってきました。
「ちょっと、外に出ましょうか」
 編集長がそう言って、僕を喫茶店に連れ出しました。店に入って腰を降ろすと、やおら手にした大型封筒をテーブルに置いて、
「いちおう、この原稿はお返ししておきます」
 封筒に入っているのは、僕のボツ原稿だったのでした。
「太田さんのショートショートは、どちらかというと短い短編小説みたいな雰囲気なんですね。だから感じはいいんだけど、キレみたいなものがない。その封筒の中に編集部の人間が回し読みした感想を入れておきましたから、参考にしてみてください」
 後からその感想を読んでみると「オチがわかりにくい」「読ませるが、恐さとかアイディアが弱い」「設定のための設定。よくある話みたい」「この表現、同人誌以下」とか手厳しい言葉が書かれていました。
「期待はしてますから、これからも頑張ってください」と言って、編集長ともうひとりの編集者が出て行くと、残ったのは僕と、あまり顔を知らない編集者だけになりました。
「もう一度、その原稿見せてもらえますか」
 その編集者はたった今突き返された原稿を、僕の眼の前で読み返し始めたのです。いい加減落ち込んでいた僕にはちょっときつい仕打ちではあったのですが、どうしてこの人はひとりで残って僕の原稿を読んでいるんだろう、と不思議な気もしました。
 その編集者はひととおり原稿を眼を通すと、細かな部分についていろいろと意見を言いはじめました。微に入り細に穿ち、といった感じでした。どのようなことを言われたのか、今はもう覚えていないけれど、プロにもなっていない人間にここまで細かくアドバイスしてくれるものなのか、とかえってびっくりするほどでした。
 言いたいことだけ言ってしまうと、その編集者も帰っていきました。しかしそのときの僕にとっては、原稿を返されてしまったというショックよりも、いろいろ話をしてもらえたという充実感のほうが勝っていました。その後、何度か上京して、その都度ボツ原稿を持って帰るということが続くのですが、それがそんなに苦にならなかったのも、その編集者のおかげかもしれません。


 しかしプロになりたいという僕にとっては、状況は決していいものではありませんでした。「ショートショートランド」は創刊して5年後に休刊してしまいます。その後コンテスト受賞者の作品の受け皿は「IN★POCKET」という文庫雑誌に替るのですが、そこもすぐに編集方針を変更して、ショートショートを載せなくなってしまいます。
 僕の作品を載せてくれる媒体そのものが、消えてしまったのです。
 おりしもバブルが膨らみはじめた頃で、会社の仕事も忙しくなってきました。毎月の残業が100時間を越えることも当たり前になってきたのです。
 そろそろ潮時かな、と思いました。ものを書くという行為はやめないにしても、プロになろうという希望は、そろそろ捨ててしまうべきかもしれない。
 そう思いはじめていた頃、まったく意外なところから、思いもかけない道が開かれていきました。それは自分がいつの間にか手にしていたコネの力でもあったのですが・・・・・・。
 といったところで、今回はおしまい。続きはまた。


○ 今回の教訓
「出だしが好調なほど、その後のもたつきが辛くなるもの」
「結局のところ、作品を書き続けていくしかないのだ」
「雑誌はいつか潰れるもの、と覚悟しておくべし」

ものかきへの長い道・第四回

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(前回までのあらすじ)
 なんとかプロへの足掛かりを手に入れた太田ではあったが、彼の前に広がるのは果てしのない投稿の連続。彼の後ろにそびえるのは膨大なボツの山であった。
 やがて彼を受け入れてくれていた雑誌が消え、足掛かりそのものが消えてしまった。
 太田忠司はこのまま、ものかきへの道を諦めてしまわなければならないのであろうか・・・・・・嗚呼!


 失意に沈んでいた僕の許に、奇妙な一通の手紙が届けられました。
 宛先には『ブラウントゥリー気付 太田忠司様」とあり「宛どころに尋ね当たりません」という赤いスタンプが押されています。ブラウントゥリーというのは僕がコンテスト受賞作『帰郷』で登場させて架空の町の名前でした。封筒をひっくり返して送り主を見ると、なんと僕の名前と住所が書かれているのです。
 狐につままれた気分で、僕は封筒を開けました。


「いきなりこんな手紙を送られて驚かれたでしょうね。こうでもしないとブラウントゥリーの住人であるあなたに手紙を届けることは不可能ではないかと思ったのですよ……」


 くわしくは記憶していませんが、手紙はこのように書き起こされていました。つまり手紙の主は架空の町の住所を表に書き、送り主を僕にすることで、僕宛の手紙を僕に返送されるように仕掛けたのです。
 このような粋というか奇抜な方法で手紙を送ってきた主の名は、井上雅彦と記されていました。彼は僕より後のショートショートコンテストの受賞者で、「ショートショート・ランド」や「IN★POCKET」にも作品を掲載していました。後に彼は、ドラキュラの好敵手ヴァン・ヘルシンク教授が若い頃日本に現れてシーボルトと共に妖怪退治をするという、奇想天外な怪奇小説『ヤング・ヴァン・ヘルシンク』や、元サーカス芸人だけが住む養老院で起きる連続殺人を描いた本格ミステリ『竹馬男の犯罪』といった作品で独自の活躍をはじめるのですが、その当時はまだ、僕と同じくセミプロの身分でした。


 この奇妙な手紙がきっかけで、僕は井上さんと交流を持つことになります。同期のコンテスト受賞者とは手紙でしか付き合っていなかったのですが、彼には直接会って話をしたくなりました。誰だってあんな奇想天外な手紙を貰ったら、書いた人間に興味を持つでしょ?
 で、僕は上京の際に彼に会うことにしました。井上さんはそのとき僕に、ひとりの女性を引き合わせてくれました。矢崎麗夜というペンネームを持つその女性は、やはりショートショートコンテストの受賞者で、後に講談社X文庫でティーンズ小説を出し、最近では『パソ婚ネットワーク』というニフティ内での恋愛をテーマにした本を出して話題になっていますが、やはり彼女もその当時はまだセミプロだったのです。
 僕は彼らに会って、コンテスト受賞者がひとつのグループを作って活動していることを知らされました。そのグループ「Aんi(あんい)」は、ひとりひとりでは不安に駆られて書くことを諦めてしまいがちな受賞者たちが、作品を見せあって切磋琢磨したり、講談社に押しかけるときに団体で行って、少しばかり圧力をかけてやろうという(本当にそんなことをしていたのかどうか、僕は確かめたことはありませんけど)意図の元に活動していました。僕は彼らに勧められ、すぐに入会を決意しました。今の僕に必要なのは、こういう集団なのだ、と直感したからです。


 僕は何度か上京してAんiの例会に顔を出し、多くの知己を得ました。現在NIFTY-Serve推理小説フォーラムのSYSOPでもあり、本格ミステリ『思いどおりにエンドマーク』でデビューし、多くのミステリとファンタジーを発表し続けている斎藤肇、同じく本格ミステリ『霧の町の殺人』でデビューした奥田哲也、SFアドベンチャーに短編を発表した藤井俊・・・・・・そういったそうそうたるメンバーが、まだデビュー前で必死に研鑚を積んでいたのです。
 思えばあの当時、Aんiというグループは梁山泊トキワ荘みたいなものだったのかもしれません。定期的に機関紙『せる』を発行し、各々が力作を載せる。それを読み込み、評し(掲載された作品の評は僕を含めた名古屋Aんiのメンバー(別名N・Aんi(なに))がまとめて副雑誌の形で発行していました)、更に次の作品へのステップとしていく。そうやって創作への意志は途切れることなく続いたのでした。


 そして機は熟しました。メンバーの中でも力のある人間は、もういつでも本格デビューできるだけの力を貯えていたのです。
 最初の一歩を踏み出したのは、斎藤肇でした。講談社で面識のあった「ショートショート・ランド」の編集者がノベルス部門に移ったのを機会に新人による本格ミステリを続けて出すことを企画し、彼に「書いてみないか」と打診してきたのです。斎藤さんはそれに応えて『思いどおりにエンドマーク』を書き上げ、見事デビューします。
 どうやら斎藤肇の後ろにまだ書けそうな人間が潜んでいるらしいと踏んだ編集者は、「他にミステリを書けそうな人を知りませんか」と尋ねました。斎藤さんは何人かの名前を挙げました。その中に僕の名前も入っていたのです。もともと「ミステリが書きたい!」と言いつづけていたので、こういう企画にはもってこいだと感じたのでしょう。
 後に斎藤さんから「講談社ノベルスのUさんに太田さんの名前言っておいたから、一度会ってみる?」という手紙が届きました。僕はすぐに上京しました。
 そして講談社の応接室で当のU氏と顔を合わせたとき、僕は唖然としたのです。
 その人こそ、僕のショートショートを細かく読み返し、くわしくアドバイスしてくれたあの編集者だったのです。ああなんと奇しき因縁であることか!
「太田さん、本格ミステリ書けます?」
 U氏は尋ねてきました。
「書きます。書かせてください」
 僕は答えました。


○ 今回の教訓
「志を同じくする仲間を作っておくべし。特にそれが奇妙な手紙を送って来るような奇妙な人間なら、なおいい」
「とにかく書け。書いて読ませろ。読ませて評価を引き出せ」
「コネはある程度作っておくと、知らぬ間に増殖してゆく」

ものかきへの長い道・最終回

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(前回までのあらすじ)
 秘密結社Aんiに入会した太田は、血の洗礼を受け吸血鬼と化した後、新たな儀式のためのいけにえを求めて夜の街に紛れ込んだ。
 こうして猟奇的な連続殺人事件の幕は切って落とされたのである。若い女を襲い、生きたまま心臓を抉り取って貪る太田の貌は、すでに人間のものではなかった。苦悩する捜査陣を嘲笑うかのように、太田は次々と犠牲者を屠っていく。
 帝都はこのまま悪鬼の餌食となってしまうのであろうか・・・・・・嗚呼!


 と、いうような「あらすじ」とは何の関係もなく、僕は長編ミステリに着手したのでした。
 まずワープロの購入。それまでは手書きだったのですが、長編のミステリとなると何度も何度も手直しが必要になるでしょうし、そのときには簡単に編集ができるワープロが便利だと考えました。やっとワープロも手の届く価格になってきていましたしね。
 で、名古屋に住むAんiの会員を通して、安くワープロを買えるルートを捜してもらいました。彼女がそういうことなら便利な人を知っていると言ったのです。
 そしてやってきたのが、東京のAんi会員のひとりでした。彼は富士通の関連会社に勤めていたのです。なるほど、こういうルートがあるんだと思う反面、どうしてわざわざ名古屋くんだりにまでこんなことのために来たんだろうと不思議にも思ったのですが・・・・・・まあ、その話は脇道にそれるので、細かく話すのはやめておきましょう。彼が彼女と結婚したのはそれから間もなくのことでした。
 とにかくワープロを買い、そのとき半ば強引にパソコン通信を勧められ、まだモデムもパソ通ソフトも持っていない状態でパソコン通信のオフライン・ミーティング(普通はオフと略します)に参加し、やがてパソ通にのめりこむ・・・・・・という転落の物語も、今回ははしょっておきます。


 パソコン通信のRT(チャット)でブラインドタッチの特訓をしつつ、僕は長編原稿を書きはじめました。最初の予定では一年くらいかければ、なんとか書きあがるだろうと考えていました。
 しかし、そうは問屋が卸さなかった(あ、手垢のついた表現)
 なかなか物語が進んでくれなかったのです。
 僕が書こうとしていたのは本格ミステリ、つまり謎解き犯人捜しの小説です。それもいわゆる「新本格」という看板を背負う作品を書くことになっていました。
 新本格というのは、すでにこの連載にも登場しているUという編集者が仕掛けたムーブメントで、若手の作家によるクラッシックな趣を感じさせる本格ミステリのことです(このあたりのことも詳しく説明したい気もするんですが、長くなるので省略します)。すでに綾辻行人十角館の殺人』、法月綸太郎『密閉教室』、我孫子武丸『8の殺人』といった傑作が次々と刊行されていました。斎藤さんの『思いどおりにエンドマーク』もその流れだったのです。
 僕はだから、すでに世に出ている新本格みたいな作品を書くつもりでした。江戸川乱歩横溝正史が大好きな僕には、彼ら新人の作品もとても魅力的であったし、こういうものなら自分でも書けそうだと思っていたのです。
 ところが、どうしてもうまく書けなかった。
 本格ミステリでは、どちらかというとプロット、トリック、アイディアといったものが優先します。キャラクターたちはそうしたミステリとしての枠組みの中で行動し、考え、生きていかなければなりません。しかし僕が創造したキャラクターたちは、僕の作った枠組みからどうしても抜けだそうとしてしまうのです。
 物語が進まなくなったのは、こうしたキャラと枠組みの齟齬、はっきり言えば自分の人間造型の方向とミステリとしてそれが食い違ってしまうこと、その軋轢のせいでした。
 まるで進まない原稿に業を煮やし、作成途中のフロッピーをごみ箱に捨て、まったく別の話を書きはじめたりもしました。しかし一度僕の中に住み着いてしまったキャラクターと彼らの事件は、どうしても僕を解放してはくれなかった。
 で、僕は決心します。書けるように書いてみようと。
 ひょっとしたら本格でもミステリでもない作品になってしまうかもしれないけど、どっちにせよ僕は僕の書けるものしか、書けない。そう腹をくくったんですね。
 この作品が完成しても、編集者が駄目と言えば本にはならない。もしそうなったら今度こそ小説家になるのはあきらめよう、とも思いました。月に100時間以上の残業、休日もほとんど出勤という職場の状況では、二度と長編小説を書こうなんて気力が生れることはないでしょう(当時の僕は腎臓と肝臓をやられ、時折ぎっくり腰になって立ち上がれなくなったりしてましたし、突然倒れて気がついたら病院のベッドの中、ということさえありました。思えば、よく生きていられたなあ)。


 こうして足掛け2年、難産の末に長編『僕の殺人』は書き上がりました。1989年の年末のことです。
 年末年始は原稿の読み直しをして、講談社の仕事始め早々に持ち込むことになりました。半日かけてプリントアウトして(ワープロの内臓プリンタしかなかったんです。あれって、のろいんだよねえ)、表紙を載せて紐で綴じる。出来上がった450枚の原稿を前にして、しかし僕はこれが本当に本になるかどうか、まったく自信が持てないでいました。
 U氏に電話で「出来はどうですか?」と訊かれても、「わかりません。ひょっとしたら本格ミステリなんかじゃないかもしれません」としか言えなかった。「でも、間違いなくこの作品は、自分にしか書けないものだという自信はあります」とも言いましたけどね。
 翌年の1月6日に上京して、U氏に原稿を渡しました。どの編集者もそうでしょうが、U氏はとりわけ多忙なひとで、常時読まなければならない原稿が数千枚は溜まっているという状況でした。入浴中にも原稿にビニール袋をかけて読んでいると聞いたことがあります。そんな状態でしたから、僕の原稿がすぐに読まれるとは思えませんでした。「できるだけ早く読んでご返事します」とは言われたけど、数ヶ月はかかるだろうな、と思っていたのです。


 ところが、そのU氏から「原稿読みました」という電話が入ったのが、その3日後のことでした。
「早いですねえ」と言ったら「なぜか太田さんの原稿だけ、すぐにも読みたくなったんです。どういうわけでしょうねえ」と電話の向こうでU氏は笑っていました。そして続けていわく、
「で、4月の講談社ノベルス8周年フェアに出したいんで、すぐにもゲラを起こしたいんですが、校正も急いでお願いできますか」
「え・・・・・・」
 一瞬、頭の中が白くなりました。
「本に、なるんですか?」
「なります」
 U氏の返答は単純明確でした。
 この瞬間、ミステリ作家・太田忠司のデビューが決定したわけです。


 その後、怒涛のような校正の波がやってきました。ストーリーの矛盾点や文章のおかしいところなど、こと細かくチェックが入り、手直しをしなければならなくなりました。こんなことなら最初から全部書き直したほうがなんぼか楽じゃ、と思うほどです。しかも今までは締切などなかったので、仕事の都合に合わせられたのですが、今度は明な締切が設けられています。とてもじゃないけど、中途半端なことはできなくなりました。
 このまま二足のワラジを履いていたら死ぬな、とマジで思いました。サラリーマンとして8年を勤め、何人かの部下もできてそろそろ肩書きがつこうという時期ではあったのですが、どちらかを捨てなければならないとわかったとき、僕はまっとうなサラリーマンであることをやめました。やっと一冊の本が出ることが決まったばかりで、これから先プロとしてやっていける保証など、どこにもありません。ひょっとしたらとんでもない無茶かもしれない。
 でも、僕は躊躇しませんでした。いや、躊躇はしたかな。でも、気持ちは決まっていた。


 1990年4月、『僕の殺人』は書店に並びました。幾多の有名作家の本と一緒に、本屋に置かれたのです。ショートショートコンテストで受賞してから10年、それ以前から作家になりたいと思っていた時期を通しての長い長い道のりの末に、僕はやっと「スタートライン」にたどり着いたのでした。


 と、いうわけで「ものかきへの長い道」全巻の終わりであります。
 これは単なる一例に過ぎません。プロの小説家になるには、それこそ様々な「道」があるでしょう。
 小説家になりたいと思っているひとは、どうか自分なりの「道」を見つけていただきたいと思います。


○ では最後の教訓
「書く、書きつづける、書き終える。すべてはそこから始まる」


(おわり)