AJICOがテレビで2ndシングル〈美しいこと〉を演奏するのを見て、カルメン・マキ&OZとか、そういうのを思い出してしまった。よく知らないけど、ベースのお姉ちゃん、かっこいいですね。
人はなぜベーシストになるのか、というと、ふた通りあると思う。
ロック系の音楽の場合、楽器の花形はあくまでギターであって、ギタリストになれなかった人(バンド内の権力闘争に負けた人)がしかたなくベースに回るという場合が少なからずあるだろう。
ところが、ファンク系の音楽の場合、「バンドのなかでいちばんかっこいい楽器はベースである」という確信のもと、自分からすすんでベーシストになる人が多いんじゃないだろうか。
そう思って見ると、ロックバンドとファンクバンドでは、ベーシストの面がまえが違うように感じられてくるから不思議。
焼酎を飲みながら、ロマン・ポランスキー監督「反撥」(1965年)を見ていたら、トリップしそうになった。
女性セブン別冊『グッチなごはん』(グッチ裕三の料理ムック)に出てくる「夜明けの鶏そば」にヒントを得て、ヌードル入りベーコンレタススープに生姜の絞り汁を加えてみた。なかなかよろしい。もっと生姜を利かせてもいいくらいだな。
ヌードルは平打ち中華生麺がいちばん合うと思う。これ以上工夫を重ねると、最後は鶏ガラからスープをとって、秘伝の醤油だれとかつくりそうなので、これで完成ということにしよう。調理時間15分でそこそこうまい、というのがミソで、本当にうまいラーメンが食いたいときは食べに行きますよ。
今週末、黒沢清監督「回路」を観に行く予定なので、予習として、「CURE」(1997年)を観た。
黒沢清監督の映画は「地獄の警備員」以来、観ていない。べつに嫌いになったわけではなく、映画そのものをほとんど観なくなっただけ。
ひさしぶりに観る黒沢映画は、あいかわらず屋上が出てきて、半透明のビニールシートがぶら下がっていた。
サイコ・スリラーとみせかけて、その実体はみごとな怪談映画で、わたしは堪能したが、ほかの人がおもしろいかどうかは知らない。わけがわからない、と怒る観客もいるだろうが、まあ、黒沢清ってそういう人だから、勘弁してあげてください。「神田川淫乱戦争」から早18年。途中、紆余曲折(伊丹プロとのひと悶着とか)もあったが、やはり才能のある人は映画を撮りつづけることができるんだな、と勇気づけられました。
黒沢清監督「回路」を観ようと思って、駅前にある映画館3館(内2館はシネマコンプレックスなので計10本分)を回ったが、どこでも上映していなかった。地方在住だと、たまにこういうことがある。テレビCMは流れているから、たぶんどこかで上映しているはずなので、そのうち探して観に行こう。
こういう状況に遭遇すると、はなからヒットさせようという気がないのではないか、と疑ってしまう。
代わりに、M・ナイト・シャマラン監督「アンブレイカブル」を観た。
大変おもしろかったので、皆さんにもお勧めします。わたしは藤子・F・不二雄のふたつの短編を連想した。「リアルオバQ」と「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」
このくらいおもしろいのなら、「シックス・センス」も観てもいいな。
ひさしぶりに映画館の座席に坐って、ふと思ったのだが、4時間くらいの長ーい映画を観たあと、エコノミークラス症候群にかかる観客が出るんじゃなかろうか。
調査の結果、「回路」は隣の市のシネマコンプレックスの片隅で上映していることがわかった。
駅までバスで15分、駅から電車で15分。とすると、計30分で行けるはずだが、バスと電車には時刻表というものがある。ダイアをつき合わせて検討してみた結果、午前10時30分の初回上映に間に合うには、午前8時30分に家を出なければならない、という結論にいたった。しかも、電車が隣の市に到着してから、1時間近く時間をつぶさなければならない。(これが東宝洋画系全国ロードショーの実態です)
もちろん、これはわたしが車を運転しないせいである。車なら、家から20分ほどで行けるはずだ(それでもけっこう大変だ)。現代日本の地方社会というのは、ほとんどアメリカのサバービアのようなもので、車がないとめちゃくちゃ不便なんです。それにしても、こういう状況を見ると、「なぜみんな黒沢清の映画を観ないのか!」と声高に叫ぶのがばからしくなる。映画館で観ることが物理的に困難な状況なのだから、ヒットしないのは当然。むしろビデオやDVDで収益をあげて、次回作を撮れるようにする、という戦略が必要だろう。
本当はめんどうくさいので、わたしもDVDが出るまで待ちたいところだが、「回路」観客5人という話を聞くと、観に行かんといかんか、という気になってきた。明日、早起きして出かける予定。(ただし、寝坊するかもしれない)
朝方、電車に乗っていたら、高校生らしき男女数人がいて、ひとりの女の子が男の子ふたり連れにこう言った。
「ねえ、××くんを呼んできてよ」
右手に持ったきれいにラッピングした包みを見て、気がついた。今日はバレンタイン・デーである。青春だなあ。
ところが、呼ばれてやってきたにくい色男の××くんは、LUNA SEAのドラマーのような容貌だった。なぜチョコを渡す相手が、よりによってこいつなのか? 残りのふたり連れのほうが、まだしもイケてるではないか? 謎だ。世の男子中高生諸君に夢と希望を与える話だと思ったので、ここにご紹介しました。
というわけで、朝から電車に乗って、黒沢清監督「回路」を観に行ってきた。
初回上映の観客動員数は4人であった。加藤晴彦ファンとおぼしき若い女性ふたり連れ、映画マニアらしき髪の毛ぼさぼさのアンちゃん、そして変なおじさん(つまり、わたし)。まあ、平日だから、こんなもんだろう。
「回路」は“ネット・スリラー”という宣伝文句からは予想外の大風呂敷な展開で、昔のSFパニック映画を連想した。ただし、ストーリーはあいかわらずわかりにくいが。
ホラー映画にはこわいものが出てこなければならない。では、何がこわいのか、という問いには、いろいろ答えがあるだろう。幽霊その他の超自然的なものがこわい。血が出て悲鳴があがるのがこわい。人間の憎悪や狂気がこわい。先が尖った鋭いものがこわい。等々。
この問いに対する黒沢清の解答は単純明快で、隠れたものとよく見えないものがこわい、となる。それゆえ、あかずの間や黒いビニール袋に包まれた顔、あるいはぶら下がった半透明のビニールシートやネット配信の動画像が登場する。要するに、黒沢清は徹頭徹尾、映画的な発想の持ち主なのである。ところが、こういう発想で映画を撮ると、ストーリーの因果関係やつじつまが合わなくなる。特に黒沢清の場合、そういうものはとりあえずの口実にすぎなくて、どうでもいいことだ、と考えているふしがある。
結果、かろうじてストーリーを成り立たせる設定だけが持ち込まれるわけだが、「回路」の場合、わたしが理解したかぎりでは、めちゃくちゃナンセンスな設定のような気がする。なんか、ほとんどギャグのような話ではないか、と思えるのだが、もしかしたらこれはわたしが水野晴郎並の理解力しか持ち合わせていないからかもしれない。充分楽しんで、館内の照明が点いたら、観客はわたしひとりになっていた。加藤晴彦ファンが途中で逃げるのはわかるが、あの若い男、きさまはそれでも映画マニアか。いや、もしかしたら彼も加藤晴彦ファンだったのかな。
頭にきたので、館内の売店でものすごくせこい「回路」キーホルダーを買って帰った。赤い粘着テープも欲しかったが、売ってなかった。
安土城発掘を題材にしたNHKスペシャルをなんとなく見ていたら、
「信長は仏教にも深い関心があった」
「信長は物質至上主義者と思われているが、仏教などの精神的なものがその根底にあった」
と研究者が力説していた。わたしの若い頃は、坂口安吾・司馬遼太郎路線で信長=合理主義者という見方が主流だったが、最近はそんなイメージをくつがえそうとする動きがあるらしい。
こういうのは結局、新発見というよりは、現代の時代精神の反映なんだろうと思う。「現代の若者には宗教的情操がないから、凶悪犯罪が起こるのだ」という意見と通底するものがある。「信長は本当はこういう人だったのか!」などと信じ込まないほうがいい。しょせん、癒しの時代の信長像にすぎないんだから。「爆笑オンエアバトル」(2/17深夜)を見ていたら、村田渚という人がエントリーしていて、フォークダンスDE成子坂が解散していたことを初めて知った。1999年には解散して、相方はTHE 3cmというバンドをやっているらしい。
村田渚はちょっと陰な感じなので、ピン芸人ではきついだろうなあ。がんばってもらいたいものです。
鈴木清順監督10年ぶりの新作は「新・殺しの烙印」! 主演は江角マキコ! ってことは、宍戸錠の役を演じるのか?
こんな企画を立てたやつはいったい誰だ。断れよ、江角も。しかし、こうなってしまった以上、鈴木清順監督には、日和見などせず、徹底的にでたらめな映画を撮っていただきたいです。まあ、言われなくてもそうするでしょうけど。
確か、具流八郎(鈴木清順を中心とする脚本家グループの共同ペンネーム)の未映画化シナリオに「殺しの烙印」の続編があったはずだが……と思い、インターネットで調べてみると、ありました。鈴木清順未公認ファンサイト「清順非公認家頁」のここから引用する。
1967年「続・殺しの烙印」(大和屋・曾根・田中)
「殺しの烙印」の続編。大和屋竺のエッセーに、次のような記述がある。「真の敵、真に倒すべき敵を求めて暗黒街をのたうち回っていた宍戸錠が、ブドウ園に雌伏して手がかりを得、眼前の敵を次々と倒して敵の本拠地へ到着すると、そこは山中の巨大なビルで、無人のコンピューターの牙城であり、暗黒からの司令が、宍戸の死の予告を磁気テープにひっそりと打ち出している・・・そんなラストシーンが忘れられない」「新・殺しの烙印」はこういう話になるんでしょうか。うーむ。
タイガース時代はさほど関心がなかったが、大リーグ入りしてから、日に日に新庄が好きになっていく自分がこわい。かつて小林信彦氏が小林旭を評して言った“無意識過剰”という言葉を思い出す。LAWSONのCM最高。
バナナが傷みかけてきたので、無事な部分を薄くスライスし、食パンにのせ、オリーヴオイルをかけて、トーストしてみた。まあまあおいしいが、ひと味足りない。たぶんシナモンとか、そういうものが足りないのではないか、と思っている。
最近、チャーハンが食べたい気分なのだが、問題がひとつあって、うちには冷やごはんというものが存在しない。シチュー鍋で茶碗2、3杯分を炊いて、炊きたてを食べきるという食生活だからである。
したがって、チャーハンをつくる場合は、茶碗2杯分くらい炊いて、冷まさなければならない。(金萬福説によると、チャーハンは温かいごはんでつくったほうがよいそうだが、こわくて試せない。家庭用のガスレンジは火力弱いからなあ)昼すぎに炊いたごはんが冷めるのをじーっと待っていると、われながら、なんか非常にばかげた行為をしているような気がしてくるのだった。
「伊東家の食卓」(2/27放送)で、「マーガリンを入れてスパゲティをゆでると湯が吹きこぼれない」という裏ワザを紹介していたが、100%デュラム小麦粉のパスタを大鍋でゆでれば、何もしなくたって吹きこぼれない。
わたしはいつも、もっと強火でゆでたいと思っているくらいです。グッチ裕三の家では、ガス管を引き直して、業務用の強力なガスレンジをつけたため、ゆでたパスタが本物のアルデンテになるらしい。スパゲティを両手で引っぱっても切れないんだって。いいなあ。「スパゲティをアルデンテにするには何分ゆでればいいか?」と質問する人がたまにいるが、そんなのは1本食べて確かめればいいだけの話。化学実験じゃないんだから、測定したり計量したりする必要はありません。「アルデンテというのはどの程度の硬さか?」というのも愚問で、自分が食べておいしい硬さがアルデンテ。べつにイタリア人の嗜好に合わせなくてもいいじゃん。
ニンニクと鷹の爪とスパゲティを常備しておくと、何もなくてもとりあえずペペロンチーニは食べられるから、便利ですよ。パセリ(乾燥もので充分)があれば完璧。