ダンケルクの戦い


ダンケルクの戦い


1939年9月1日にポーランドへ侵攻し勝利したドイツ軍は、1940年5月10日にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵攻、5月17日以降に北フランスを席捲した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。
ドイツ軍は戦車・航空機といった新しい兵器を中心とした電撃戦を展開、その火力・機動力を集中運用する新戦法によって連合軍主力の後方を突破すると、ドーバー海峡まで駆け抜けてこれらを包囲し、ダンケルクへ追い詰めた。


経過

イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは、イギリス海外派遣軍とフランス軍、約35万人をダンケルクからの救出を命じ、イギリス国内から軍艦の他に民間の漁船やヨット、はしけを含む、あらゆる船舶を総動員した撤退作戦(作戦名:ダイナモ作戦)が発動された。ドイツ軍はアラスの戦いでの連合軍の反撃を、近く行われる連合軍の本格的な反攻作戦の端緒と誤認し、酷使した機甲部隊の温存をはかり、また空軍大臣ヘルマン・ゲーリングの大言壮語もあって、ドイツ空軍による攻撃でこれを阻止しようとした。しかしイギリス空軍の活躍と、砂浜がクッションとなって爆弾の威力が減衰したことなどもあり、連合軍のほとんどは海からの脱出に成功した。なおこのとき、カレーで包囲されていたイギリス軍部隊はドイツ軍を引きつけておくために救出はされなかった。この部隊の犠牲もダイナモ作戦の成功の一因であった。
この戦いで、イギリス軍は約3万人の兵員を捕虜として失い、戦車や火砲、トラックの重装備の大半の放棄を強いられた。数十万の兵士がほぼ丸腰で帰還、イギリス軍は深刻な兵器不足となる。しかしこの撤退は人的資源の保全という意味では大きな成功を収めた。


その後[編集]
フランス軍ダンケルク撤退以後は雪崩を打ったように崩壊。ドイツ軍は13日、パリ占領。更に2日後、1916年の戦闘で敗北したドイツ軍因縁の地、ヴェルダンに進撃、フランスはついに6月21日に講和(降伏)を申し込み、翌22日、受諾された。漁夫の利を得ようとフランス降伏の12日前に参戦していたイタリアのベニート・ムッソリーニは、「死の床の重病人に宣戦布告した」と批判されている。