「 自称 被害者 」 から の 挑戦状

 

「 自称 被害者 」 から の 挑戦状

 

  業務計算システム による 業務計算不具合


                          2024.03.14
弊支店では、L-AREA - System を使用し、業務計算処理を行っている。
事前に連絡された 業務基幹システム Ver.UP に基づき、
今回提供された 新Ver 用 の L-AREA - System を使用した際に、
以下 の 不具合がありましたのでご確認宜しくお願いします。


 01. 計算処理 が できない。
 02. 計算処理結果 が おかしい。



…… おお …… !、こいつ、使いやがったよ!。

よりによって、『 不具合 』 だと 凸(- -# ?!。


…… と、同時に、 σ(^_^) には 瞬間的に、 ()原因(犯人)() った。


…… が、それにしても、『 不具合 』 だと凸(- -#。


なら、いったい 真犯人(原因)()か、気づいてもらいましょう。

もちろん、真犯人は σ(^_^) です ( 推測 )


その支店には、 σ(^_^) のシステムが複数、導入されています。
きっと、彼は、別なシステムを使っているのでしょう。
GUI …… 操作画面のデザインが 同一 極似 だから、勘違いしたのでしょう。
もっとも、GUI が変わっていても、きっと ” 業務基幹システム が 変わったから ” と、
正当化してくれるでしょう。

現場検証

「 『 以前 』 と 『 以降 』 で、出力データの内容がどうなっているか、確認をお願いします。 」



(_ _) が犯人です  σ(_ _) が犯りました

 

明日の操作会議で、 σ(_ _) が犯人 だと、きっとばれるでしょう。

『 2人、1役 』


(作者曰く、そう書かなかったからと言って、そうではないということにはならない――これが、叙述トリックの一つ)

紅鰊燻製塩焼定食


 


二階堂黎人 不定期日記 2005 年 07 月 ~ 12月

nikaidou.a.la9.jp  
二階堂黎人 不定期日記 2005 年 07 月 ~ 12月 *1



» 2005.12.06


 我孫子武丸さんが、掲示板に意見を書き込んでくれた。返答を書いたのだが、少し長くなったのと、他の方にもぜひ読んでもらいたい要素を含んでいるので、下に記すことにした。


----------------------------
 我孫子武丸さん、こんにちは。
 御意見と、ご忠告、どちらもありがとうございます。
 特にご忠告に関しては、友達がいを感じて嬉しく思いました。


 まあ、御意見に関しては、対立点はないので、議論にはなりませんね(笑)。


 とにかく、私は、自分の本格観を披露して、あの『容疑者Xの献身』を本格ではないという意見を開示しています(何度も書いていますが、本格でないからくだらないなどと言っているわけではありません)。もしも、異論があれば(特に、あの作品を本格だと思う評論家は)、堂々と、自分の本格観を示した後で反論を述べてほしいと思います。そして、私の意見のどこに間違いや錯覚があるのか、証明してみればいいのです。

 というよりも、本来、私が日記で述べたような事柄は、評論家が提示すべき問題です。それを行なわないのは、評論家として怠慢としか言いようがありません。たとえば、『2006 本格ミステリ・ベスト10』にページを割いて、探偵小説研究会の誰かがこのことを問題提起をすれば良かったのです(といって大げさなら、論じれば良かったのです)。

 しかし、残念ながら、今現在、探偵小説研究会を中心とした本格評論シーンは危機的な状況にあります。笠井さんは、最近、新本格(第三の波)が退潮期に入ったのではないかというような懸念を示すようなことがありますが、それに以上に危なくて、このままだと土台から腐って瓦解するのは本格評論シーンの方です。その証拠に、我孫子さんがまとめておられるe-NOVELSにおいても、「週刊書評」がしょっちゅう休載になる始末です。また、今年の評論の収穫といっても、笠井さんがこの前出した『ミネルヴァ』の第2巻しかない始末です。このままでは、《本格ミステリ大賞》の評論賞の存続さえ危うい状況です(すでに、そんなものは要らないという意見も、クラブ員の間から出ています)。

 今回の件を含んだ私の忠告をただうるさいと思うだけか、それとも反省材料にするかは彼らの問題ですが、聞き流すだけならば、五年後、十年後に振り返って、(評論の場をなくした)彼らは大いに後悔するでしょうね。

 それから、どのような論点も、小さな矛盾やブレはあるでしょう。それをもって、全体が間違っている、とするような考えは、少なくとも私は採りません。あくまでも、総論と根本原理でもって定義、定理、理論を語りたいと思います。過去における都筑道夫のロジック論、笠井潔の大量死論や第三の波論、島田荘司の本格奇想ミステリー理論、そういうものも、みんなそうでしたね。

 もともと、ミステリー(そして本格推理小説)などは、形のないものです。過去の論客たちも、文学的な芸術性の観点から、そのジャンルの活性化や進歩を目指して、評論活動を行ない、その面白さの中枢がどこにあるのかを、必死に読者に知らしめようとしてきたわけです。ですから、曖昧さがあるのは認めますし、だからこそ、意見の集約や最大公約数的見地から、ジャンルの定義を見出そうと頑張ってきたのではないでしょうか。
 よって、語ることは是であり、それを封じることこそ非であると私は考えます。

 とかく、日本人というのは、悪しき儒教精神から、前へ出て正々堂々と意見を述べるような行動や、そういう人間を、「けしからん」「みっともない」などと叱りだします。行儀論を持ち出して言論封殺をするのが社会的な正義だと、(無自覚に)信じている輩が多く、そうでないとすると、今度は、陰でこそこそと悪口をいいだす始末です。実は、そういう者こそ、私はみっともないし、醜悪な存在だと思っています(この辺は、島田荘司先生の考えとまったく同じですが)。

 今回の件に関しても、私は反対意見を否定していません。むしろ、(評論家の中から)反対意見が出ることを渇望しています。ただしそれは、「東野圭吾の作品を本格でないと言うなんてけしからん!」というような感情的罵倒ではなく、何が本格で、何が本格でないか、あの作品が本格なのか本格でないのか、理論的に論争を交わしたいと思うのです。


 さて、我孫子さんは、御自分の『弥勒の掌』の例を挙げてくれましたね。私は、「よくぞ、挙げてくれた!」と快哉を叫びました。そうなんです。『弥勒の掌』と『容疑者Xの献身』を比べることによって、私の述べたことの正当性がさらに強固になるのです。
弥勒の掌』は、紛うことなき本格の傑作です(ただし、探偵役の存立に関して一部瑕疵がありますが、そのことは我孫子さんに前に告げたし、別の話なので、ここでは述べません)。

 何故、傑作かと言えば、結末まで読んで、探偵役の推理を読者が聞かせられた瞬間、冒頭からそこまでの物語が一瞬にして頭に甦り、あそこにも、ここにも、そこにも、そこら中に手がかりや証拠が埋まっていたことが解るからです。ありとあらゆる挿話や、登場人物の会話、何らかの示唆が、この結末を支えるために用意されていたことが解るわけで、その鮮やかさに、我々読者は舌を巻くことになります。そして、それこそが、本格推理小説におけるカタルシスの原動力だと私は思います。

 我孫子さんはこうも書かれていますね。「『容疑者X~』はというと……これはいわゆる「後ろから殴りつけるタイプ」のミステリなので、」と。そういう点では、『容疑者Xの献身』も『弥勒の掌』も同じ系統の作品でしょう。しかし、殴った後がまるで違います。『容疑者Xの献身』の場合、被害者は(つまり、読者は)、自分が何故殴られたのか死んでしまっても解らないのです。ところが、『弥勒の掌』は、必死に被害者が振り返って、犯人の顔を見ることができます。すると、その犯人は、一週間も前から、被害者を付け回していたストーカーだったとか、会社のライバルなどで、そういえば、このところ年中、そいつから嫌がらせを受けていたとか、何故、自分が攻撃をされたか理由が解るのです。

 極論を言うと、『容疑者Xの献身』の真相が、石神は宇宙人で、母娘に殺された死体を食べて証拠を隠滅した、などというものであっても、我々読者はいっさい文句を言えません。何故なら、すでに何回も書いたとおり、そこでの真相は、作者が一方的に読者に与えたもにすぎないからです。そういう形態が、私の言うところの《捜査型の小説(=非本格=広義のミステリー》の手法というものなのです。

» 2005.12.05
 掲示板にも書いたが、ここで私が述べたことに関する議論や反論を行なう際についてのお願いと、私の側のスタンスを、以下に記しておく(掲示板からの引用)


 たとえば、一連の記述において、私が『容疑者Xの献身』を非難しているなとど誤読するような人の書き込みには、申し訳ないが、時間的余裕から、今後は無視せざるを得ない。私はあくまでも、「本格ではない『容疑者Xの献身』を、本格だと誤解(無理解)している評者を批判している」のである。つまり、ブッシュ大統領をつかまえて「あの人は立派な日本人だ」という者がいたら、「いいえ、ブッシュ大統領アメリカ人ですよ」と誤解を解くだろう。立派かどうか(本が面白いかどうか)は別の問題だ。それと同じことなのである。


 出たばかりの「このミス」と「本格ミステリ・ベスト10」で言えば、ミステリー研究家の日下三蔵氏は、前者では『容疑者Xの献身』を1位に推し、後者では順位からはずしている。本格が何であるかをちゃんと理解している評論家の行動として、これが当然のことであろう(彼に対する評価眼ランキングは3位から1位に昇格。それ以上の順位はないのでごめん(笑))。

 もう一つ付け加えておくと、そもそも、東野圭吾さんのガリレオ探偵シリーズは本格パロディだ。本格を揶揄することで同時に非本格ミステリーも揶揄し、また、それらに関して無理解な読者を(特に評論家を)揶揄していることは言うまでもない。過去の短篇集がパロディだったのに、この長編を真面目に(本格に立ち向かって)書かれたものだと誤解する方がおかしい。そういう点も含めて、東野圭吾さんはこの長編を使って揶揄しているのだと、私は推測している。
掲示板の書き込みに関するお願い】
基本的に、あるジャンルの活性化や進化に繋がる議論は大いにすべきだと思います。
しかしながら、それには前提があります。


(1) 相手の意見をよく聞く(読む)こと。大意をしっかり理解した上で、質問なり、反論を行なう。
(2) 枝葉末節の言葉尻を捉えたり、揚げ足取りをしない。ネット紛争でよくあるのが、やたらに細かいことをいいだし、最後は感情論になって、悪口の言い合いになってしまうこと。これは避けたいですね。
(3) 議論の基盤となる、あるジャンルの歴史や基本理論はしっかりと身に付けておくこと。たとえば、本格推理小説について議論をしたいのなら、ポーから新本格推理に至る歴史や、いろいろな人が唱えている本格推理に関する定義の代表的なものは理解しておくこと。それから、今回のことで言えば、1920年代から徐々に整備された本格推理小説のゲーム性と、それに付随する「フェアプレイ」のルールについてはちゃんと頭に入れておいてもらいたい。


また、前にも書いたことなのですが、僕は自分の述べた意見に関して責任を持っているし、議論は大いにする用意はありますが、それでも、不特定な人(ハンドル名しかあかせない人)とは、あまりそれを行ないたくない(行なえない)と思っています。何故かと言うと、(3)の部分が担保できないからです。
議題となる事柄の確信的な部分で話をしている時に、推理小説の歴史を1から説明するような事態はごめんです(そのような時間的な余裕もありません)。


 さて、その上で、もう少し、本格(推理小説)とは何か、ということを論じよう。
 本格を成り立たせる条件として、次の三つが挙げられると思う。

  (1) 文学的定義
  (2) 作家の動機(執筆者の精神)
  (3) ジャンル的技術(手法)


 一番目は、本格の外観である。私は、本格の定義を『《本格推理》とは、手がかりと伏線、証拠を基に論理的に解決される謎解き及び犯人当て小説である』と考えている。過去の有識者の意見も概ね似たもので、たとえば、乱歩なら、『 探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である。』としている。

 また、ミステリー全体の定義に関しては、私は『《ミステリー》とは、《謎》の存在する小説の総称で、主として、《推理型の小説》と《捜査型の小説》を合わせたものである』。つまり、ミステリーは、大きく二つの種類に分けられるのだが、その定義は、『《推理型の小説》とは、ミステリーのうち、謎を推理という思索的行為によって解決する物語である。《探偵小説》や《推理小説》や《本格ミステリー》がこれに該当する。《捜査型の小説》とは、ミステリーのうち、謎を捜査という体験的行動によって解決する物語である。《私立探偵小説》や《警察小説》や《犯罪小説》などがこれに該当する』ということになる。

 このあたりの事柄については、光文社文庫の『本格推理15』で詳しく論じているので、興味のある方は読んでみてほしい。ミステリーが、《捜査型の小説》と《推理型の小説》に分かれることを正しく理解していないと、ハードボイルドは本格より高尚だとか、本格は他のジャンルより立派だ、みたいなとんちんかんなことを言いだしかねない。同様に、推協賞や「このミス」などは、私から言わせると、冷蔵庫とテレビと電子レンジとパソコンを比べて、どれが一番役に立つ家電かを競うような珍妙な競技にしか見えない。


 二番目は、その作品を書く作家に、本格魂があるかどうかだ。これは感性の問題なので、読者側がどう感じたかということも問題になる。外観的には謎があり、捜査があり、論理的な推理があっても、魂が注入されていなければ何にもならない。かつて、粗製濫造された多くの社会派ミステリーやトラベル・ミステリーを読んで、我々がそれらを(優秀な)本格だと感じないのは、そのためである。少なくとも、私や芦辺拓氏や有栖川有栖氏などの書く作品を読んで、本格を書いていない、などどは誰も思わないだろう。そういうことなのである。


 三番目は、本格のファアプレイ理論に基づき、どのような手法や技術を用いて作品を構築するかということである。今回、私が『容疑者Xの献身』を本格ではない、と断じたのは、大きくこの三番目からのことで、一番目や二番目もある程度関係する。
 この本の真相(湯川の想像)には、読者に対する手がかりも証拠も充分でなく、読者はそれをけっして推理できない。よって、作者が真相であるとするものが最後に開示されるまで、読者は真相に到達し得ない。つまり、そういう結末の得られ方(作者からの与え方)は《捜査型の小説》であるから、《推理型の小説》ではない(=本格推理小説ではない)、ということなのである。Q.E.D.

» 2005.12.04


 ほう。『本格ミステリ・ベスト10』も、『容疑者Xの献身』が1位でしたか。ますます戦いがいがある。闘志が湧いてきた(笑)。
     :

» 2005.12.03


 ははは。「このミス」の一位は、東野圭吾さんの、『容疑者Xの献身』でしたか(笑)。これはぜんぜん構わないというか、むしろ当然の結果なんでしょうけどね。

» 2005.12.02


 この前書いた、折原一さんの小説や、東野圭吾さんの、『容疑者Xの献身』が、限りなく本格(推理小説)に近い非・本格(広義のミステリー)である、という主張について、もう少し詳しく書こう。


 たとえば、このような叙述トリックものを仕掛けたミステリーがあるとする。有名な避暑地のホテルに集まった人のうち、女性だけが、4人も殺される。彼女たちの年齢も16歳から45歳とまちまち、出身地も名前も経歴も共通点はない。謎は謎を呼び、犯人が解らないので恐怖は増大するばかり。しかし、最後に、被害者は全員が妊娠していて、臨月間近でお腹が大きかったことが、(作者の描写によって)明かされる。ただし、それまでは、いっさい、彼女たちが妊娠しているような描写や素振りは書いていない(作者曰く、そう書かなかったからと言って、そうではないということにはならない――これが、折原一さんなんかが、よく使う叙述トリックの一つ)。犯行動機は、ある人物が妊娠している女性を、ある理由から憎んでいたうんうん。

 読者は物語中で、女性たちが妊娠していることに関する手がかりも証拠も、何一つ作者から情報を与えられていない。そのため、訳が解らず、疑惑は膨らむばかり。結局、推理はできず、想像だけはしてみるが、決定打がなく、最後に作者が提示する答えを待つしかないのである。
 ――というのが、叙述派の作家がミステリーを書く時の方法である(英米ミステリー作家の叙述ものも、だいたいがこれ)。

 だが、これでは、この小説は、本格(推理小説の)の資格はない。
 この物語と叙述トリックのまま、それを本格にしようとするならば、物語の途中に手がかりと証拠をこっそり埋め込む必要がある。たとえば、女性たちが手帳(実は母子手帳)を持っているとか、毎月産婦人科へ行っていると話をしているとか、とにかく、最後になって読み返すと、「ああ、そうか、女性たちは、妊娠していたからこそ、あんな物を持っていたり、ああいう行動をしたのか!」と合点がいくような証拠が必要なのだ。
 では、何故、折原さんたちが、ミステリーを書く時、そうした手順を踏まないか(つまり、本格として書かないか)というと、謎の設定に対する自由度が膨らむからだ。それによって、読者の惑いも飛躍的に大きくなる。作者としては、読者が真相を見抜かない方がありがたいし、だから、わざと見抜けない(推理できない)ように書いているわけである。
 しかし、本格推理作家の場合には、証拠や手がかりによって、謎作りも解決の幅にも枠をはめている。それが、本格推理小説の様式美の一つであって、その限定された枠の中で、どれだけの驚きを与えられるかが、勝負なのだ。よく、読者は「犯人が解った」と当てずっぽうで言ったりするが、ある程度は解って当然。何しろ、犯人を作中の数人の登場人物の中だけに押し込めているのだから(選択肢は少ないし、想像外の結果はあり得ない)。
 何にしろ、読者一般にも、そうした両者のミステリー作法の違いを解ってもらえたらありがたい。ミステリーには、いろいろなもの(ジャンル)があって、そのそれぞれに特徴や独自の面白みがあるのだ。

» 2005.11.28-2

 あれから、ネット書評をいくつか読んでみたが、誰も、『容疑者Xの献身』の本当に真相に気づいていないようだ。もちろん、それは、東野さんが、『どちらかが彼女を殺した』のように、真相をあえて書かなかったものだろう。つまり、たいていの人は、湯川の「想像」を真相だと思っているようだが、あれはあくまでも「想像」であって、真相ではないのである。東野さんは、別の真相を、あの物語の中に巧妙に隠してあったわけだ。私はそう推察する。

 以下に、『容疑者Xの献身』の真相を書く(反転しておく)。この本を読了したが、真相に気づかなかった人のみ、読むこと。


 結論から書く。

 石神が愛していたのは、母親の靖子ではなく、娘の美里である。美里も、そのことを前々から知っている。

 東野さんが叙述トリックで、(本当に隠していたのは)このことなのである。石神が献身を捧げているのは、靖子ではなく、美里なのだ。
 冒頭、石神が不審な物音を聞いて(殺人があった)、隣の部屋を訪れ、一度自室へ戻った後、もう一度、彼女たちの部屋へ行く。この時、すでに石神が殺人について知っているのは何故か。それは、美里が母親の目につかぬよう、石神にケータイで、「殺人を犯してしまった。助けてくれ」とのメールを送ったからに他ならないのである。
 石神が、靖子の恋人の男性工藤を尾けたりしたのも、靖子に惚れていたからではなく、美里が母親の再婚を気に入らず、そのことを石神に文句を言っていたからだ。写真を撮っていたのも、母親の相手がどういう人物か、美里にメールで知らせるためもあった。
 弁当屋で、石神が靖子に惚れているんうぬんという噂が立っている、というような思わせぶりな記述も、すべて、この錯誤を成立させるための叙述トリックの一部である。
 最後の方で、石神が、靖子と美里に初めてあった時の気持ちが書いてある。もしも、靖子に一目惚れしたのなら、普通、作者はそう書くはずだ。ところが、そうではなく、「何という綺麗な目をした母娘だろうと思った」のように、曖昧な書き方(常に二人を対象とした書き方)をしてある。
 結末の方で、美里が自責の念に駆られて自殺未遂したように見えるのも、父親殺しに関する自責の念ではなく、自分を愛してくれた人(石神)に対する罪悪感なのである。
 真の殺人者である美里が、冒頭以外、ほとんど出てこないのも、すべてこのため(石神の真の気持ちを読者に隠すため)だ。
「 幾何の問題に見せかけて、代数の問題 」 というのは、湯川が受け止めたようなアリバイと被害者の問題ではなく、愛する相手の取り違えのことなのである。 

» 2005.11.28
 島田荘司先生の 『 エデンの命題 』 と、東野圭吾さんの 『 容疑者X の 献身 』 を読了。

『 容疑者Xの献身 』 に関して、今年の本格推理の収穫のように書いている書評を見た記憶があるのだが、それはちょっと違うのではないかと思う。
もちろん、東野さんの見事な話術によって、これはとても面白い小説に仕上がっている。
したがって、 「 いい小説だった 」 とか 「 面白いミステリーだった 」 と読者が感じるのは、当然のことだ ( 特に、一般読者なら )。
だが、 「 本格 ( 推理小説 ) として優れている 」 と評するならば、それは間違っている、と正す必要がある。
何故なら、これは、折原一さんの ( 限りなく本格推理に近い ) ミステリーと同じで、読者が推理し、真相を見抜くに足る、決定的な手がかりを ( 作者が ) 恣意的に伏せてある ( 書いてない ) からだ。
これでは、 ( 本格として ) フェアとは言えず、したがって、本格推理小説としての完全な条件を満たしていないわけだ。

 ただし、東野さんは、明らかにそのことを自覚していて、確信犯的にそのように書いているのだと思う ( つまり、限りなく本格に近い、広義のミステリーとして書いているにすぎない ) 。
私も、別に、以下のことを作者の瑕疵として指摘しているわけではないので、念のため。


 以下、内容に言及して、この件を詳しく説明する。反転しておくので、未読の方は注意のこと。


 この小説のトリックの肝は二つあって、一つが一つを補強して、全体のプロットを構成している。
どういうことかと言うと、殺人犯人の石神がBという男を殺し、これをAという男の死体のように見せかける ( ここまでは、作中犯人のトリック )。
そして、実際の犯行が3月9日夜にあったのを、そのことをわざと ( 作者が ) 書かず、Bが死んだ3月10日のことのように書く、という叙述トリックによって、石神の仕掛けたトリックが ( 主に、読者に対して ) 成立するようし向けてあるわけだ。
 ここで大事なことは、どちらのトリックに関しても、名探偵役の湯川が己の 「 想像 」 を語った際、決定的な手がかりが存在しないことである。
犯行日時の特定は、文中事件を現実のものと考えれば、今後、警察の科学捜査によって、個人の特定(発見された死体がAではなく、Bであるということ)などから可能であろう。それによって、日時の決定を ( 読者に対して ) 示したと ( 作者が ) 主張することもできる。そもそも、叙述トリックの場合には、あることをわざと書かないことによって、読者の思い込みに錯誤を与える手法を採ることが多い ( ただし、私なら、それでも、日時が後で明らかとなるような手がかりや証拠は文中に埋め込む。実際、スキー・サイコ・シリーズは、そのように書いてある ) 。
 さて、問題なのは、死体の件である。湯川は最後まで 「 推理 」 と言わず 「 想像 」 と言っているが、彼の「想像」を警察官と読者が聞かされても、それは確かに 「 想像 」 にすぎない。
何故なら、彼がそのように見抜いた手がかりも(石神の思わせぶりな問題提出はあるが、確証とは言えない)、また、死体が別人のものであるという決定的な証拠もないからだ。本格推理小説の場合ならば、名探偵がそのように「推理」した際、前に戻って、その「推理」が正しいと認めるに足る証拠が存在する文章か単語を発見できるであろう。しかし、この作品には、そうした重要な証拠がない。よって、湯川も「想像」はできても「推理」はできなのだ。ということは、証拠を基にした推理が不在なのであるから、これは(本格)推理小説とは言えないのである。


 重ねて書くが、この小説はとても面白いし、良質の(広義の)ミステリーである。しかし、本格推理小説として優れている、というのならば、これは今述べた意味において本格推理小説ではないのだから、そういう評価は間違っている、と指摘するのが適切だろう。



*1:  引用目的に鑑みての不要部分は、 σ(^_^) が削除しました。