モルトケの法則

モルトケの法則

※ 要 原典

モルトケの法則 」 とは、
  部下登用の考え方について示した法則。

この法則は組織のトップとしてどのような部下を任命するか
部下 の 「 能力 」 と 「 意欲 」 という2つの要素の高低で
4つに分類し、その優先順位による登用を唱えたもの。


唱えられた優先順位は以下の通り。

 1 :能力 = 高い、 意欲 = 低い
 2 :能力 = 低い、 意欲 = 低い
 3 :能力 = 高い、 意欲 = 高い
 4 :能力 = 低い、 意欲 = 高い


理由は以下の通り …… だそうです ^^; 。

「 能力 = 高い 、意欲 = 低い 」 部下 は
    「 命令に従順であり、確実に業務を遂行する。」

「 能力 = 低い、意欲 = 低い 」 部下は
    「 業務上扱いやすい。 」

「 能力 = 高い、意欲 = 高い 」部下は
    「 上司と対立する可能性があり、扱いにくい。」

「 能力 = 低い、意欲 = 高い 」 部下は
    「 意欲だけが空回りしてしまう可能性あり。 」


『 「 意欲 」 が低い 』 ほうが …… 良いのか …… 。


Depesche von Ems



※出典原文は旧漢字

ベネデツイ伯は、― 終に最も強要的態度にて ― ホーヘンツォレルン家の候補者再燃の場合にも、余が将来永久に決して 余の承認を与へざるべき旨の言質を与へたる旨 電報すべき権限を彼に与へたる旨を 余に求めんがために、散歩道に於いて余を襲ひたり。

余は結局 彼をやや厳峻に拒絶したり、
 何となれば かかる絶対にとの約は、為すべからず 又 為す能はざるものなればなり


故に陛下は オイレンベルク伯並びに小官の言上に従はれ、再びベネデツイ伯を引見せられざる旨 並びに ベネデツィ伯がパリより接受したる以上の報道を入手せざるゆゑ、も早やこの上 足しに語るべき何物もなき旨を、侍従武官として告げしむべき旨を 決心せられたり。
陛下は、このベネデツィの新申出 並びに その拒絶を、猶予なく我が在外使臣 並びに 新聞に通報する方 可ならざるか否かの決定を、閣下に委せる旨 申渡されたり


前段で、
01. ベネデッティ伯が散歩道に現れ「最も強要的な態度」でヴィルヘルム1世に対し、「ホーエンツォレルン家(によるスペイン王位継承)の候補者問題が再燃した場合」も、
プロイセン国王が「将来永久に(王位受諾の)承認を与えない旨の言質を(ベネディッティ伯に)与え」かつそれを「(ベネディッティ伯が本国等に)電報で送信する権限を与える」ことを求めた事実、

そして、これに対し国王が「絶対に(王位受諾の承認を与えない)と約束することは、するべきではなく、又、することもできない」ため「やや厳しい態度で拒絶した」事実を伝えている。

そして後段で、
国王がベネデッティ伯と二度と引見しないこと及び引見が無意味であることを決心し、
ベネデッティ伯の申出とその拒絶を、在外の大使・公使、新聞を通じて公表すべきか否か、その判断をビスマルクに委任している。

※出典原文は旧漢字
既にホーヘンツォレルン家の親王が スペイン王位相続の意思を放棄されたること、スペイン国政府よりフランス政府に 公式に伝達せられたる後、フランス大使はエムスに於いて、我が国王に更に求めて、
国王陛下がホーヘンツォレルン家の候補者再燃の場合にも、将来永久に亘り、その承認を与へざるべき旨の言質を 与へられたる由を、パリに電報すべき儀に関し 申し出でたり。
茲に於いて 国王陛下は 爾後フランス大使を引見することを拒絶せられ、 且つ当直の侍従武官に、陛下はこれより以上、大使に伝達すべき何物もなき旨 告ぐべきことを 命令せられたり

改変のポイントは?
 改変されたテキストは、半分ほどの分量になっている。
 情緒的な文言もなく、普通の官僚的な文書に見える。


しかし、次の点が原文と異なる。

(1)冒頭に、「ホーエンツォレルン家の世子が辞退される旨、スペイン政府がフランス政府に対して正式に通告した後」という表現が加えられた。
  報道のため状況を補足したとも読み取れるが、
  この一文があることで「プロイセンが譲歩したにも関わらず、フランスは無礼にも要求を重ねてきた」
  という印象を読者に与えることになる。

(2)原文では、ヴィルヘルム1世は「右記のごとき不当な要求に鑑み、オイレンブルク伯と小生の意見を踏まえ、もはやベネディッティ伯とはお会いにならず、(中略)大使にこれ以上言うことは何もないと、副官を通じて伝えることにお決めになられました」とある。


 ベネディッティとのやり取りの後、高官らと協議した上で「もう面会しない」ことを決めたとわかる。
しかし改変後はそうした経緯が省略されたため、
ヴィルヘルム1世がフランス大使の無礼な態度に怒り、
即座に 「 もう会わない 」 と決めたような印象を受ける。

(3)原文では、ヴィルヘルム1世がフランス大使への返答として「(詳細を)まだ何も聞いてはいない」としている。
政治家などが取材に答えたくないとき、「まだ詳細を聞いていない(読んでいない)」などとごまかすことはよくある。
ヴィルヘルム1世の言葉も、そうした種類の方便であろう。

ビスマルクはこのくだりも省略した。


ビスマルクが読み取らせたかった ” ストーリー ”
 これらの改変により、原文にあった婉曲さはなくなり、別のストーリーが読み取れるようになった。

それはつまり、
プロイセン側がフランス側の要求に譲歩したにもかかわらず、
 フランス側はさらに要求を続けてきた。

 怒ったヴィルヘルム1世は、フランス大使の要求を即座にはねつけた 」 という、
事実と異なる“ストーリー”ができてしまったのだ。

これを読めば、プロイセン国民は「フランス大使は無礼だ、拒絶した国王はよくやった」と感じるだろうし、
フランス国民は「プロイセン王はフランス大使を侮辱した」と感じるだろう。


 ここで重要なことは、
ビスマルクは事実と異なることを捏造したり、針小棒大に騒ぎ立てたりしたのではない 」 ということだ。
事実は概ね事実のまま、
 微妙な表現の書き換えや前後の省略によって、
  読む者の心理を刺激するような文章に仕立て上げたのだ。

 ビ
スマルクの恐ろしい改変の問題とされる部分は次の二点です。
1・侍従長が発信したことが分かる部分を完全にカットした。



 そのため、この電報をヴィルヘルム1世が自ら発信したかのように映ります。



2・国王自身はベネデッティ大使に「今後会見しない」とは言わなかったのに、
  改変文はさも国王が「もう会わない」「何も言うことはない」と言ったように読める。


 これは正に国王が大使に「最後通牒」を突き付けたように見えます。

 実際は、ヴィルヘルム1世は散歩がてらに話すのはここまでで、これ以上は外交問題なので双方が大臣クラスの話し合いをすればいい、と考えていたと思います。
ですから「もう会わない」などと言っているのではなく、「微妙な部分は今後政府間の協議にしなさい」との意味で「これ以上(国王として大使に)話すことはない」としたのです。多分、この意味は長年プロシアに駐在するベネデッティには良く伝わったのではないか、と思います。


 本当は侍従長が国王の意を受けて打った電文が、まるで怒り心頭の国王から直接宰相に宛てて打ったかのような内容の短縮。これをそのまま読んでしまえば、プロシア国王は今後フランスとの交渉を一切拒絶する態度に出、この後には国交断絶=戦争が待っているかのような印象を与えるのです。



 翌7月14日朝。ビスマルクは新聞各社に昨日宛ての「エムスで静養中の国王からの電報」として「省略ヴァージョン」の「エムス電報」を配布しました。また、同時に各国大使館へこの電文を送付したのです。


 ビスマルクはアーベケン侍従長からの電報原文を宰相の執務室の金庫に入れて封印してしまいました。

 この電報のニュースはこの日夕方にはドイツは元よりヨーロッパ各国に広まって行きました。この電文が意味する「恐怖」に気付いた人々は一斉に叫び出しました。

「これは!戦争が始まるぞ!」



 エムスのヴィルヘルム1世は、翌15日の朝刊「ケルン新聞」の一面に躍る「エムスにて」の文字に思わず立ち上がり「これは戦争になるぞ!」と叫びました。

 国王は一体何でこのような記事となったのか、戸惑いを隠せない様子だったと言います。

 また、フランスでは大手通信配信社「ハバス」(現在は広告代理店)の翻訳記事が全土の新聞に配信されましたが、電文の翻訳中、ベネデッティ大使に国王の意を伝えた「副官」(Generaladjutant)または「侍従」(Adjutant)が、
フランスでは、本来なら「侍従武官」(Aide-de-camp)か「副官」(Adjutant)と訳されるべきところ、「下士官」(Sous-officier)と訳されてしまい、これが「一国の大使に格下の伝令を送った著しく無礼な態度」と思われる、という「火に油を注ぐ」事態となったのでした。


Havas通信社によるフランス語への翻訳版では「Adjutant」という単語を翻訳せずそのままにしていた。

この 「 Adjutant 」 という単語は、
ドイツ語では階級の高い副官を指す。
しかし、フランス語では単なる下士官 ( Adjudant ) を指すという違いがある。

このため、「 Adjutant 」 を通じて大使へメッセージを伝達させたという文面が、
プロイセン王がフランス大使を侮辱するためにわざと士官ではなく下士官にメッセージを伝達させたと誤解されることとなった。

この翻訳版が、翌日にほとんどの新聞に掲載されたが、
それがたまたま7月14日(パリ祭)にも当たっていた。
この記事によって、フランス人はプロイセン王がフランス大使を侮辱したと信じ、
フランス大使が自ら報告する前に、フランスの世論の方向性が定まってしまった。

いわゆる ゼークト の ……

都市伝説であり、
まず、ゼークトは、そんな事は言ってないし、そんな著作もない。

Kurt Gebhard Adolf Philipp Freiherr von Hammerstein-Equord[2],

ja.wikipedia.org