その後方に空母らしきもの一隻を伴う

 

1942.06.05

04:30

南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊 *1 を発進

05:15

PBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機(利根4号機)を発見、近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告。


日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦長良から、続けて戦艦霧島から敵機発見を知らせる煙幕があがった[172]。南雲機動部隊は直掩(援)零戦隊を発進させ始めたが、アメリカ軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった[173]。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した[174]。アメリカ軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は赤城でも傍受している[175]。

空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進した[176]。基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された[177]。午前3時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると、エンタープライズスプルーアンスに対して攻撃を命令した[178]。アメリカ海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスエンタープライズとホーネットの攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した[178]。

午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊は艦攻、艦爆、戦闘機隊の順で進撃して来る[179]日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が被弾[180]、直後に零戦隊が逆襲に転じて戦闘機同士の制空戦となった[181]。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃したF2Aブリュースター・バッファロー戦闘機20機のうち13機が撃墜され、F4Fワイルドキャット戦闘機6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。アメリカ軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した[182]。映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった[183]。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している[184]。日本軍攻撃隊は、アメリカ軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った[185]。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した[185]。友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている[186]。アメリカ軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった[185]。また、帰途につく艦攻隊に最初の空戦で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機菊池六郎中隊長以下3名がゴム筏の上でマフラーを振っているのが発見され非常食が投下されたが、その後の戦況のため救助されることはなかった[187]。

攻撃の成果が不十分と判断した

07:00

友永大尉 、南雲機動部隊に対し「 第二次攻撃の要あり 」と打電

07:15

南雲司令部は各艦で待機中の攻撃隊に対し、
「本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換(0415通達、第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え)」
と通知し、陸上攻撃用爆弾への換装を命じた[202]。

07:00 第16任務部隊は117機の攻撃隊を発進させた。

空母エンタープライズ
F4F戦闘機10機(VF-6、指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)
SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6、指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6、指揮官:ウィルマー・ギャラハー大尉)
TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:ユージン・リンゼー少佐)
空母ホーネット
F4F戦闘機10機(VF-8、指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)
SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ローディ少佐)
TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)
しかし午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、スプルーアンス少将は全機を飛行甲板に並べて一気に発艦させるのを待たず、出撃準備ができた飛行隊から逐次発艦、攻撃に向かわせた。中には戦闘機隊の護衛なしの攻撃隊もあったものの、結果的に、このスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる。

また、日本軍の空母4隻全ての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を発進させた[207]。

空母ヨークタウン
F4F戦闘機6機(VF-3、指揮官:ジョン・サッチ少佐)
SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)
TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:ランス・マッセイ少佐)
ヨークタウンは(09:05)に攻撃隊を発進させると、すぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機17機(VS-5)、戦闘機6を甲板に並べ、発進準備を行った[207]。また米潜水艦ノーチラスは日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦駆逐艦嵐)を雷撃するも命中せず、爆雷6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった[208]。

07:28

  利根の4号機「敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 」

08:20

  「 敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻」

08:30

  「 敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬」



第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を率いていた山口少将は、一刻を争う状況と判断して、駆逐艦野分を中継し、あらゆることを放棄し、現装備の陸用爆弾のままですぐに攻撃隊を発進させるように、南雲長官に進言した[243]。文面には諸説ある。一説には
「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」
「現装備ノママ直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルヲ至当ト認ム」

進言時点で第二次攻撃隊は出撃の準備態勢に入っており、発進は可能だった[252]。ただ、この時点で赤城・加賀の攻撃隊は陸上攻撃用の兵装転換はまだ終えていない[253]。草鹿参謀長、源田参謀の証言では、すぐに発艦準備に入れるものは第二航空戦隊の艦爆隊だけだったという[254][245]。一方、淵田中佐による、敵艦隊発見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたという証言もある[255]。

午前5時30分(08:30)、赤城からの「艦爆隊二次攻撃準備、250キロ爆弾揚弾セヨ」との信令を受け、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾の揚弾を開始する[256]。

各空母の状況に加え、偵察機の報告ではアメリカ軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際のアメリカ軍機動部隊はもっと近くにいた)事も踏まえ、南雲司令部は幾つかの条件を検討した[257][258][259]。

九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、陸用爆弾に換装した機が少なく元々少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である[259]。
第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない[258]。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である[259]。
敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るためにほとんど発進しており、一度着艦して補給する必要がある[258]。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない[259]。
戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦やアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない[260]。
南雲は山口の進言を却下。南雲は米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は発進可能と判断した[259]。南雲の幕僚らによれば、戦闘機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から帰還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考えたという[261](詳細は「勝敗の要因」)。午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する[262]。午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた[263]。同時刻、重巡洋艦筑摩から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)発進予定」との報告がある[264]。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に発進可能との報告があった[265]。

午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る[266]。攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4号機から帰投するという電報が届いた[267]。阿部少将は第八戦隊「利根」、「筑摩」に交代の偵察機発進を命じると[268]、利根4号機に「帰投まて」を命じた[269]。零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握するための長波輻射を利根4号機に命じた[270]。だが利根4号機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった[271]。

後方の戦艦大和で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下連合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった[272]。宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている[273]。山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、連合艦隊司令部は何も発信しなかった[274]。

米艦載機の雷撃

空母エンタープライズ艦上のTBD雷撃隊
第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが[275]、蒼龍では午前6時50分頃までかかっている[276]。南雲中将は連合艦隊山本五十六長官)に米空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する[277]。赤城では第一次攻撃隊の収容が終わると九七艦攻の雷装への復旧作業が開始された[278]。この状況下、

9:20

)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBDデヴァステイター雷撃機15機が日本の機動部隊上空に到達[279][280]、日本側では赤城や筑摩が確認した[281]。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる[282]。アメリカ軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま赤城を狙った。一機の雷撃機は赤城の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している[283]。デヴァステイター隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した[284]。ゲイ機は蒼龍を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる[285]。戦闘後の名誉勲章推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる[286]。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった[284]。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機はホーネットに帰艦した[284]。

午前6時37分(09:37)、利根の4号機から「燃料不足のため帰投する(発午前6時30分)」と連絡が入る[287]。阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した[288]。同時刻、利根の4号機と交代すべく筑摩の5号機が発進した[288][289]。午前7時(10:00)、蒼龍の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した[290]。これは前述のように、利根4号機が報告した米艦隊の位置が100km以上ずれていたためである[214]。

09:50

ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズの雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した
[291]。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズの雷撃隊を掩護できなかった[292]。エンタープライズの雷撃隊は加賀を目標にするが9機を失い、帰還中の1機が着水、1機が帰還後投棄、残存3機だった。零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する[293]。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失ったことに生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている[294]。

(10:10)、ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃隊が南雲部隊上空に到達した。飛龍は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという[295]。ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した飛龍を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した[296]。その上空では、戦闘機隊指揮官ジョン・サッチ少佐によって、彼の発案した対ゼロ戦空戦戦術サッチウィーブが初めて試されようとしていた[297]。この時点でヨークタウン戦闘機隊は6機だけである[296]。雷撃隊全てを護衛できずTBDデヴァステイター10機が撃墜され、帰還中の残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戦死、飛龍に魚雷5本を発射したが全て回避された。空母から出撃したTBDデヴァステイター雷撃機41機中、生き残ったのは僅かに3機のみという文字通りの全滅となってしまった。だが15機の零戦に6機で挑み、損害1機に対し5機撃墜というアメリカ軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戦闘機隊隊員に自信を持たせたという[296]。一方プランゲは「サッチ戦法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戦闘機隊は何の役にも立たなかった」と評している[298]。生還した雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戦24機に襲われたと証言している[295]。コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戦闘機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戦っていたことになる[295][299]。この時、駆逐艦嵐に救助されて捕虜になったヨークタウン隊雷撃機隊員が重大な情報を供述した(「#飛龍の反撃」参照)。

日本軍三空母の炎上

日本空母が被弾した状況を再現した、ノーマン・ベル・ゲッデス(英語版)によるジオラマ。大戦中に作成されたものであるため、不正確な部分がある。
その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズ艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた[300]。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する[301]。午前6時55分(09:55)、アメリカの潜水艦ノーチラスを攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦嵐を発見した[302]。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する[303]。嵐は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた[304]。ただし嵐の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、嵐は赤城の直衛で傍を離れていなかったと主張している[305]。エンタープライズ艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した[306]。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズ艦爆隊は30機となった[303]。

日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、

マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戦場に到着する。こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズ艦爆隊とヨークタウンの艦爆隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に対応して直掩零戦のほとんどが低空に降りており[307]、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ[308]、「敵、急降下!」と加賀の見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった[309]。

先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊で、加賀を狙った[310]。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった[311]。

10:22-24

加賀、マクラスキー少佐率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中[312]、続き3発が短時間の内に命中した[313]。



10:24、レスリー少佐のヨークタウンの艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始した[315][316]。蒼龍は艦爆12-13機と記録[317]。発艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ機銃掃射をもって突入した[318]。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は蒼龍の前部エレベーター前に命中し大爆発を起こし、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た[316]。ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である[316]。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦磯風の後部に至近弾となった[319]。

同時刻、エンタープライズ艦爆隊のうちベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、ベスト大尉とクルーガー中尉とウェバー中尉、3機のみで旗艦赤城を狙った。赤城では直衛の零戦が着艦し、補給を行い、ふたたび発艦する瞬間だった[320]。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が赤城より発艦した時点で急降下がはじまった[321]。木村一飛曹によると、加賀・蒼龍炎上直後、赤城上空の敵機が急降下に入っていない段階で、攻撃隊の発動機が起動しており、先頭のAⅠ-101号(戦闘機隊長機)に整備兵が乗っていた。直後に1番機が急降下を開始し、同時に赤城が風に立ち始めたため指揮所に合図して隊長機に飛び乗り発艦し、高度50メートル付近で赤城を見ると、発艦前にいた位置に爆弾が落ち、2番機と思われる零戦が逆立ちになって炎上していたという[322]。最初クルーガー中尉機の1弾は左舷艦首約10mに外れたが、続いてウェバー中尉機は至近弾1発そしてベスト大尉機は1発の爆弾が命中し[323]、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した[324]。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある[325]。発艦寸前だった零戦1機が爆風で赤城艦橋付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った[326]。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った[312]。


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飛龍の反撃


飛龍は雲下にあり、またヨークタウン雷撃機の攻撃回避のため他の3隻の空母から離れており、アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった[347]。午前7時50分(

10:50

一航艦の次席指揮官である第八戦隊司令官の阿部弘毅少将は赤城、加賀、蒼龍の被弾炎上を主力部隊に通報。
阿部は「飛龍ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、
続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた[348]。

10:50

)の時点で、第二航空戦隊司令官山口多聞少将は独自の判断で飛龍を単艦で北東方向に進めており、被爆した三空母とそれを取り巻く一航艦の各艦からは相当離れた位置にあった[349]。山口少将は、来襲した艦載機の数から敵空母は2隻と判断しており、飛龍1隻の航空戦力で十分に戦えると考えていた[349]。艦爆は攻撃の準備を終えて艦攻は雷装中であり、間に合った零戦をつけた[350]。

10:50

山口少将は、阿部少将の命令と入れ替わりに「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と全部隊に発信した[349]。
先任の阿部をさしおいて山口少将が反撃を主導したのは[注 3]、山口少将の性格と、二航戦が現時点での主力であり重要な戦機であると考えたためとする意見もある。敵空母は攻撃を終えた艦載機を収容中であり、接近して攻撃力を発揮できる好機だった[353]。

午前7時54分(10:54)、南の水平線上に炎上する3空母が見える状況で、飛龍は攻撃隊発艦のために風上の東に針路を変え[349]、

11:00

第一波攻撃隊として小林道雄大尉(艦爆)指揮する九九艦爆18機、零戦6機の計24機が発艦した[354][355]。九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった[356]。飛龍は第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した[357]。

飛龍の第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた[358]。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している[359]。すぐに筑摩5号機から「敵空母の位置味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す0810」との連絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した[360]。第一波攻撃隊を指揮する小林大尉は米軍艦上機の飛行経路を辿る事で筑摩5号機の誘導に頼ることなく米軍空母部隊に辿り着く戦法をとったが、米軍艦爆隊との小戦闘に巻き込まれる遠因にもなった[361]。また午前8時(11:00)、蒼龍十三試艦爆アメリカ軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報(着信午前8時40分)[362]。30分後の午前8時30分、アメリカ軍機動部隊発見を発信している[363][364]。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが[365]、無線機の故障により、南雲部隊ではアメリカ軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという[366]。この頃、赤城の零戦隊7機が飛龍に着艦した[367]。加賀からは零戦9機[368]、蒼龍からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した[369]。

ミッドウェー島攻撃から帰還した友永大尉の九七艦攻(左右の両翼に計4つの燃料タンクがあり、それぞれ機体側に350リットルの主タンク、翼端側に225リットルの補助タンクがある[370])は、ミッドウェー島を攻撃した際に、F4F戦闘機の機銃弾が左翼つけ根付近を貫通し、左翼主タンクを射抜かれていた[370]。第二波攻撃隊を編成する時点で、出撃可能な艦攻は友永機を除くと9機であった[371]。友永大尉の次席指揮官となった橋本敏男大尉は、ミッドウェー攻撃時は友永機の偵察員であり、左翼主タンクへの被弾を目の当たりにしていた[370]。橋本大尉は乗機の交換を友永大尉に進言したが、友永大尉は攻撃機数を確保するため交換を拒否し[371]、友永大尉が第一中隊(艦攻5機)を率い、橋本大尉が第二中隊(艦攻5機)を率いることとなった[371]。

橋本大尉は、友永機について「左翼タンクの応急修理くらいはしたはず」と戦後に推定していた[372]。飛龍で友永機の機付整備員であった谷井繁義によると、射抜かれたタンクの交換には半日を要し、もとより不可能であり、貫通孔を麻布と接着剤でふさぐ応急修理のみが可能であった[373]。谷井ら整備員が応急修理を終えて燃料を入れてみると、気がつかなかった別の破孔から燃料が漏れ出し、既に再修理の時間はなく、友永機の左翼主タンクは使えなかった[374]。友永大尉は、整備分隊士の野依武夫・整備兵曹長が「片道燃料では出撃させられない」と制止するのを振り切って出撃した[375]。蒼龍乗組の戦闘機搭乗員で、機動部隊上空直衛任務に就いており、蒼龍大火災のため飛龍に着艦した原田要は、友永雷撃隊の出撃を見送っており、その際に「友永大尉の艦攻は修理のいとまがなく、片道燃料で出撃した」と整備員たちが話していたと戦後に証言している[376]。米艦隊までの距離は近く、友永大尉は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている[377]。

午前8時15分(11:15)、ヨークタウンでは攻撃隊着艦作業が始まったが、着艦事故が発生し甲板が損傷[378]、11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた[379]。偵察隊発進後まもない午前9時(12:00)、レーダーが南西46海里に日本軍機を探知する[379]。ヨークタウンは重巡洋艦アストリアとポートランド駆逐艦ハムマン、アンダースン、ラッセル、モーリス、ヒューズに輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット戦闘機12機を発進させた[380]。

午前8時20分(11:20)、飛龍の第一波攻撃隊は空母に帰還するエンタープライズ艦爆隊を発見。日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊(重松康弘大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還[381]、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助された[382]。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)はついにヨークタウンを発見した[383]。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみがヨークタウンを攻撃した[384]。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功、爆弾3発が命中、1発がボイラー室に火災を発生させ、ヨークタウンは動力を失い航行不能となり[385]、フレッチャー司令官は重巡洋艦アストリアに移乗した[386]。

代償として、飛龍第一波攻撃隊は艦爆13機(小林隊長機を含む)と零戦3機を失い、艦爆5機と零戦1機が飛龍に帰還しただけだった[387]。帰還機も、零戦1が海面に不時着(搭乗員は救助)、艦爆1が修理不能であり、修理後使用可能艦爆2・零戦1という状況だった[388]。飛龍攻撃隊はエンタープライズ型空母に爆弾5発、陸用爆弾1発を命中させ、大破あるいは大火災、撃沈と報告した[389]。しかし、ヨークタウンは午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノット発揮可能となった[390]。また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩の5号機は、午前9時5分(12:05)にアメリカ軍戦闘機の追跡を受け退避[391]、その15分後、新たなアメリカ軍機動部隊を発見した。

午前9時(12:00)、南雲も長良の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった[392]。午前10時(13:00)、駆逐艦嵐は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley Frank Osmus)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った[393]。有賀幸作第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した[393][394]。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している[395]。

空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻[393][396]。
ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一団とし、他の部隊とは別働しつつあり[393][396]。
(米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり[393][396]。
5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず)[393][396]。
連合艦隊は、アメリカ軍機動部隊の戦力と出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米戦艦群のうち、戦艦アリゾナ、ユタ、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している[397]。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという[398]。オスマスは水葬に附された[399]。彼の名前はバックレイ級護衛駆逐艦「オスマス (護衛駆逐艦)(英語版)」に受け継がれている。

午前10時15分(13:15)、第八戦隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対して直ちに索敵機を発進させよと命じた[400]。午前10時30分(13:30)、飛龍から第二波攻撃隊(艦攻10機、零戦6機)が発進[401]。うち、零戦2機(山本、坂東)は飛龍に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった[402]。筑摩4号機も発進した[403]。いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が飛龍に着艦した[404]。さらに、午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した[405]。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は「敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり」と高く評価している[406]。この時点で、山口少将は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った[407]。午前11時(14:00)、母艦利根で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する[408]。午前11時30分(14:30)、戦艦榛名の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた[409]。


14:30
)、飛龍の第二波攻撃隊はアメリカ軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中のヨークタウンだった[410]。
筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力でアメリカ軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永丈市大尉はヨークタウンを「損傷を受けていない別の空母」と判断した[411]。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始する[412]。

ヨークタウンは直掩F4F戦闘機16を向かわせ、艦攻4機と零戦2機を撃墜し[413]、続いて艦攻1機を対空砲火で撃墜したが、4本の魚雷が両舷から挟み撃ちの形でヨークタウンに向かい、2本が左舷に命中した[414]。ボイラー室と発電機を破壊されたヨークタウンは航行不能となり左舷に傾斜して総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した[415]。(以上はアメリカ側の文献による)

第二波攻撃隊の艦攻10機は第一中隊5機を友永大尉が、第二中隊5機を橋本大尉が率いていたが、ヨークタウンの巧妙な回避運動のために挟撃雷撃はいったん失敗した[416]。のちに有名になるジョン・サッチのF4Fが、友永機と思われる隊長標識をつけた艦攻を撃墜したが、サッチ機の攻撃で両翼が炎上したその艦攻は、海面に突入する寸前に、ヨークタウンに向けて魚雷を投下した(命中せず)[417]。戦闘詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談(電信員の浜田義一・一等飛行兵[418])をもとに、黄色い尾翼の友永機は[419]対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している[420]。橋本大尉の率いる第二中隊はいったん雲の中に退避して態勢を立て直し、ヨークタウンを雷撃、魚雷2本を命中させ、その旨を飛龍に打電した[416]。第二中隊5機のうち1機(赤城から編入された西森進・飛曹長機)は手違いで魚雷が落ちなかったが[421]、第二中隊は全機(艦攻5機)が飛龍に帰還できた[421][422][423]。(以上は日本側の文献による)

飛龍第二波攻撃隊は、艦攻5機(友永大尉の第一中隊全機)と零戦3機を失った[424]。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、400-500mの高さにまで達する大爆発を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている[425]。

山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった[426][427]。これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃したヨークタウンの後方に「別の空母炎上中」と報告した為である[428]。第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している[429]。この頃、フレッチャー少将は空母ヨークタウンが攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母飛龍発見の報告を受けた。ヨークタウンを航行不能とされたフレッチャー少将は、スプルーアンス少将の「何か指示があれば承りたし」という信号に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している[430]。

飛龍沈没

急降下爆撃を受けて炎上する空母飛龍
空母ヨークタウンが飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(アメリカ軍機動部隊から72浬)と発信した[431]。駆逐艦のうち1隻は軽巡洋艦長良(南雲忠一中将乗艦の旗艦)で[431]、戦艦榛名、重巡洋艦利根、筑摩、軽巡洋艦長良、駆逐艦3隻は飛龍の周辺に集結していたのである[432]。飛龍発見の電文を受信した空母エンタープライズはウィルマー・ギャラハー大尉率いるエンタープライズの爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させた[433]。

午後0時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した[434]。零戦2機、艦攻5機(友永隊長機を含む)を失い、艦攻4機が修理不能零戦1機が不時着(乗員は救助)、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している[435]。飛龍の鹿江隆副長は「(米空母2隻撃沈により)これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという[436]。だが飛龍の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少し[437]、炎上する赤城に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えた[438]。山口少将は十三試艦爆によりアメリカ軍空母の位置を把握し、同機の誘導により、修理の見込まれる全兵力で薄暮攻撃をかけることを伝える[439][440]。ただし攻撃機の消耗度から三隻目の撃破は難しいと考えた[441]。山口の幕僚によれば、一次攻撃、二次攻撃での被害が山口少将の予想をはるかに上回るもので、山口少将は三次攻撃の断行に逡巡をしめしたという[442]。この間、赤城・加賀・蒼龍から飛龍に着艦した零戦が交替で飛龍の上空を守っていた[443]。敵からの攻撃に関して山口少将は「現在の上空警戒機で阻止できる」という意向を話した[441]。

十三試艦爆の発進準備が終わり[444]、友永隊を護衛していた加賀所属零戦1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時[445]、アメリカ軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズ艦爆隊指揮官ギャラハー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、飛龍の飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した[446]。午後2時(17:30)、直衛の零戦6機の迎撃と飛龍の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した[447]。続いてヨークタウンの爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃した[448]。護衛の利根と筑摩が対空砲火で迎撃したが阻止できず、飛龍に爆弾4発が命中した[449]。長良からは、飛龍のエレベーターが飛龍の艦橋の前に突き刺さっているのが目撃されている[450]。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦榛名を爆撃したが、至近弾に終わった[451]。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネットの艦爆隊15機は利根と筑摩を攻撃したが、全て回避されている[452]。この他にも飛龍と筑摩は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった[453]。

詳細は「飛龍 (空母)」を参照
炎上した飛龍は午後6時23分(21:23)まで機関は無事だったため、離脱と消火に努めた。だが艦橋と機関科間の電話が不通で、機関科は全滅と判断された[454]。しばらく洋上に浮いていた飛龍に横付けされた駆逐艦が消火協力したものの、誘爆が発生して消火不能となった[455]。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口少将は南雲司令部に総員退艦させると報告し[454]、加来艦長と共に、駆逐艦巻雲の雷撃によって沈む飛龍と運命を共にした。飛龍が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが[315]、艦底部から脱出した機関科員34名が沈みゆく飛龍から短艇によって離艦したのは、巻雲の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという[456]。彼らは15日後にアメリカ軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である[457]。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし417名には先のアメリカ軍に救助された機関科員34名が入っている。


*1:  友永丈市大尉指揮:零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機