2000年9月




 アヴラム・デイヴィッドスンのウェブサイト

 ミステリ関連でいうと、エラリー・クイーン名義で『第八の日』『三角形の第四辺』『真鍮の家』を書いた人として有名でしょう。まあ、プロットはフレデリック・ダネイがつくったんでしょうから、「デイヴィッドスンの作品」とまではいえませんが。

 わたしは最近、MASTERS OF THE MAZE(1965)を読んで、あまりのおもしろさに腰を抜かし、Wildside Pressから本をまとめ買いしてしまいました。70年代以降の作品はイマイチらしいので、60年代の長編だけですが。


 エラリー・クイーン名義で小説を書いたSF作家には、もうひとり、シオドア・スタージョンがいる(『盤面の敵』)。

 ところで、ここの情報によると、『顔』はジャック・ヴァンスが書いたとされているが、これ、本当ですかね? 少なくとも、わたしは初めて聞いた話。


 ゴースト・ライターの存在を不道徳だと考える人もいるだろうが、実際にはどうでもいいことである。『第八の日』や『盤面の敵』はエラリー・クイーンの作品であることには間違いない。エラリー・クイーンとは「エラリー・クイーン名義の作品の作者」以外の何者でもなく、誰がタイプライターを叩いたかなどは、どうでもいいことだからだ。

 実を言うと、エラリー・クイーンは、フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの二人とも、ほとんど関係がない。


 ウンベルト・エーコ先生はとっても頭のいい人なので、このへんのことをわかりやすく説明するためモデル作者という言葉を使っている。

 たとえば、ジェラール・ド・ネルヴァルは「シルヴィ」の作者(モデル作者)であって、パリの裏路地で首吊り自殺したジェラール・ラブリュニーとは全然関係がない。

 それなのに、世の中にはガイドブック片手にパリを訪れ、

「ここがネルヴァルが自殺した場所か」

 などと見物に行く輩がいる。

「そんな連中に『シルヴィ』の美しさは金輪際わからないだろう」

 と、エーコ先生はおっしゃっている。(『ウンベルト・エーコの文学講義』)


 ここでジョークをひとつ。


 法月綸太郎氏にはエラリー・クイーンの霊が取り憑いている。ときどきリーのほうがスランプになるので、小説が書けなくなる。

 だが、本当は、法月氏に取り憑いているのはエラリー・クイーンの霊なんだろう。いわばモデル作者の霊である。除霊してもらったほうがいいんじゃないかな?


 メーリング・リスト情報によると、バリントン・J・ベイリーはCosmos Booksと契約した模様。来年1月には、全旧作に加え、未発表2長編もCosmos Booksから出版されるらしい。2001年はベイリー再評価元年になるかな?


 コナン・ドイルが盗作したあげく、その相手を毒殺したんだって。【日本語報道】【英語報道

 この説を唱えているのは、作家のロジャー・ギャリック=スティールさん。彼の話によると、『バスカヴィル家の犬』は、友人のバートラム・フレッチャー・ロビンスンの原稿を盗作したもので、この事実が発覚するのを恐れたドイルは、ロビンスンの妻グラディスと共謀して、ロビンスンを毒殺したそうな。なんで妻と共犯になったかというと、ドイルと不倫してたかららしい。

 詳しくは11年間の調査研究の成果をまとめた著書『バスカヴィル家の館』(THE HOUSE OF THE BASKERVILLES)を読め、というわけ。

 ロビンスンはドイルにダートムア地方の伝説を教えた人で、『バスカヴィル家の犬』を執筆する際、取材旅行にもつき合ったそうだ。

 いわば協力者だから、「本当の作者はロビンスンだ!」と言い出す人は昔からいた。ギャリック=スティールさんの場合、不倫と毒殺というセンセーショナルな話題を加えたところが取り柄かな。

 百歩ゆずって、『バスカヴィル家の犬』にロビンスンの発想が含まれていたとしても、騒ぐほどのことじゃない。他人のアイディアで小説を書いても、盗作でもなんでもないですよ。頭のなかにあるものと、実際に書かれたものとは別物だからね。


 WEB本の雑誌が開設されたらしい。

 わたしに松本人志並の才能があれば、もっと的確な喩えを口にすることができただろうが、キャイーン天野ひろゆきみたいというありきたりの感想しか浮かばないのが残念。(>関連記事


 Charlie Lesterさんの個人サイトEthereal Esoterica 137

 ロス在住のLesterさんは教会オルガニスト兼テレミン奏者で、趣味は真空掃除機とUFOであるらしい。ちなみに137というのは微細構造定数である。

 なんだかよくわからないけど、アメリカ西海岸っぽいと思った。


 たぶん公式サイトだと思うが、www.warrenzevon.com

 知人の説によると、眼鏡をかけたミュージシャンにハズレなしだそうで、確かにバディ・ホリー、アンディ・パートリッジ、エルヴィス・コステロウォーレン・ジヴォンブルース・コバーンと並べてみると、そうかなと思う。

 ウォーレン・ジヴォンは気分が落ち込んだときに聴くといい。ますます落ち込むから

「じいさんはおもらしして、兄貴はヴェトナム帰りでおかしいまま、親父は妹を虐待して、母さんは癌で死にかけてて、家畜は全部ブルセラ病

 という歌詞のあと、


スウィート・ホーム・アラバマ

あの死んだバンドの歌を流そう

音量を最大にして

ひと晩じゅう流そう

 というサビが来る〈Play It All Night Long〉なんて、最高によいですよ。もう、人生に絶望して死にたくなる。(ちなみに「死んだバンド」とはレイナード・スキナードのことです)

 ちなみに2000年リリースの最新アルバムは《LIFE'LL KILL Ya>。あいかわらずだなあ。もう50歳すぎだってのに。


 ウォーレン・ジヴォンのアルバムから1枚選べといわれたら、たぶん《WARREN ZEVON》になると思う。〈Mohammed's
Radio〉と〈Desperados Under the Eaves〉というふたつの名曲が収録されているから。

 ちなみに、ロバート・A・マキャモンが『奴らは渇いている』(田中一江訳、扶桑社ミステリー)のエピグラフで使っていた〈Join
Me in L.A.〉もこのアルバムに入っている。

 しかし、わたしはジヴォンの《TRANSVERSE CITY》というアルバムが好きだ。

 これはサイバーパンク・アルバムである。たぶん、聴いた人は全員、この音楽のいったいどこがサイバーでパンクなんだ、とツッコミを入れるだろうが、本人がそう言っているのだから、しかたがない。個人的には、ニール・ヤングの《TRANS》に匹敵する傑作だと思っているのだが、まあ、一般性ないだろうなあ。


 余談だが、深夜番組でみうらじゅん氏が、

「ロックはTHEだ! The BeatlesThe Rolling StonesThe Whoを見よ!」

 と主張していたら、

「じゃあ、 アルフィーもロックなんですね。The Alfeeだから

 と返されて、ものすごくいやそうな顔をしていた。

 たぶん眼鏡をかけたミュージシャンにもハズレはあると思うが、べつに教えてくれなくてもいいです。


 BOOK OFFに行ったら、Freak Powerのアルバム《DRIVE-THRU
BOOTY》(1994)があったので、買って帰る。

 で、いま聴いているのだが、すごいなあ。カヴァー曲がスライ&ファミリー・ストーンの〈Running Away〉であることからもわかるとおり、とても90年代に製作されたとは思えない音楽。気持ちいいけれど、どこかしら寒々とした気分にもなる。ノーマン・クックが最も衰弱していた時期の産物ですな。

 この衰弱からFatboy Slimとしてよみがえったノーマンは立派です。(だが、ニュー・アルバムの目玉は、ジム・モリスンの声をサンプリングして、ウィリアム・“ブーツィ”・コリンズが参加した曲だそうだから、油断はできない。衰弱との闘いは永遠につづくのよ)


 ふと思い出したけど、何かのインタヴューで、ポール・ウェラーが「どうしていまどき70年代ニュー・ソウルみたいな音楽をやるんですか?」と訊かれて、

「いちばんかっこいい音楽だからに決まってるじゃねえか」

 みたいな返事をしていたので、恐れ入ったことがある。皮肉じゃなくて、ポール・ウェラーは偉いです、いやホントに。

 でも、こういう境地に達するのは難しいだろうなあ。口先だけで言うのは簡単ですけどね。


 夢日記なんてつまらないものを公開していると、よく、

「すごい夢見ますね」

「本当にああいう夢見るんですか?」

 と言われるが、個人的にはたいしてすごい夢は見ないほうだと思っている。

 本当にすごい夢とは、こういうものを言います。

 詩人で国文学者の藤井貞和さんという方がおられて、湾岸戦争当時、ある詩人と論争をした。その経緯は『湾岸戦争論』(河出書房新社)という本にまとめられている。

 論争を始める前、藤井さんは思い悩んだ。この手の論争は不毛な結果に終わることが多い。わざわざ自分から論争を仕掛けることはないんじゃないだろうか?

 そんなある夜、藤井さんは夢を見た。

 夢の中には、折口信夫が出てきて

「論争しなさい、日本の詩歌の未来のために

 と言ったというのである。

 これは喩えていえば、新保博久さんの夢枕に乱歩が立って、

「探偵小説の未来のために笠井を倒せ」

 と言ったみたいなものだから、相当すごい夢だと思う。


 誤解されると困るので、あわてて書き添えておくが、わたしは藤井貞和さんを尊敬しています。

 題名を失念したが、藤井さんは中高生向けに古文の読み方を解説した岩波ジュニア新書を書いておられる。そこで読んだ話。

 古文の教科書で『源氏物語』を読み、興味を持ったとする。全部読んでみたいが、古文で読むのはちょっとつらい。そんなとき、どうしたらいいか?

「現代語訳で読みなさい」

 と、藤井さんは勧めている。

 その現代語訳も、どれでもいい。いずれも訳者ごとに特色があるから、書店や図書館で拾い読みしてみて、いちばん読みやすく、自分に合っていると思うものを選べばいい。

「間違っても、現代語訳で読んでも『源氏物語』を読んだことにはならない、などと思わないように。現代語訳でも、ちゃんと『源氏物語』を読んだことになります」

 このくだりを読んで、わたしはちょっと感動した。

 だいたい、国文学の先生は、古典の現代語訳をはなからバカにしていて、「現代語訳で読んだのでは『源氏物語』はわからない」とか言いたがるものだ。外国文学の先生もそうだね。「××は翻訳で読んでもわからない」という台詞を吐きたがる。

 さらには翻訳家もそうで、誤訳を指摘するとき以外は他人の翻訳書を読まなかったりする。

 それなのに、「現代語訳で読みなさい」ときっぱり言いきる藤井さんはホント偉いです。


 突然ですが、わたしは今日からアヴラム・デイヴィッドスンが60年代に生活費を稼ぐために書いたSF長編をほめたたえる会会長に就任することにしました。

 こんな会の発足は、故アヴラム・デイヴィッドスン氏にとって大変迷惑だと思うので、細々と活動していく所存です。今後ともよろしく。


 会長就任の記念に、アヴラム・デイヴィッドスンのウェブサイトにあるHenry Wessells " Something Rich and Strange: The Writings of Avram Davidson"を読んでみた。おもしろかった話をいくつか。


 1963年半ば、公園整備のためニューヨークのアパートメントを立ち退くはめになったデイヴィッドスンは、一家そろってメキシコに引っ越した。このときF&SF誌の編集者だったデイヴィッドスンは、それから1年間、メキシコに暮らしながら、仕事を続けた。ファクシミリも宅配便もまだ存在せず、町には電話が1台しかないのに。

「でも、〆切に遅れたことはなかったと思う」と、F&SF誌発行人のエド・ファーマンは回想する。「ただ、1回だけ、イグアナに原稿を食われたと言われたことがある」


 デイヴィッドスンはエラリー・クイーン名義で『第八の日』と『三角形の第四辺』を書いた。つづいて『真鍮の家』を執筆するための打ち合わせを始めたが、最終的に原稿を書いたのはシオドア・スタージョンであるらしい。(本当か?)


 デイヴィッドスンは1970年にユダヤ教から天理教に改宗したそうだ。この事実を見ても、相当変な人であることがわかる。そういえば、昔〈SFマガジン〉でアヴラム・デイヴィッドスン来日の記事を読んだことがあるが、そういう理由だったのか。