2000年10月




 図書館で借りてきたジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』(伊藤典夫浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)をぽつりぽつりと読んでいる。

 このように、わたしは20年前に出版された本の翻訳を1年半遅れで読むという状態なので、今年のミステリベスト10を選べとか、そんな無茶な依頼はしないでください。

 で、話を戻すと、「スロー・ミュージック」を読んでいて、そうか、ティプトリーウィリアム・バトラー・イェイツの〈気違いジェーン〉詩が好きなのか、さすが趣味がいいなあ、なんて考えていたら、ふと思い出したことがあったので、忘れないうちにここに書きとめておく次第である。


 ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「タデオ・イシドーロ・クルスの生涯」という短編には、イェイツの詩がエピグラフに使われている。記憶で書くので不正確だろうが、


私は探し求めている

創世前につくられた自分の顔を

 という詩行で、実にかっこいい。「すばらしいエピグラフだ」という評言をどこかで読んだような覚えもある。

 ところが、昔、集中してイェイツの詩を読んでいたとき(もちろん翻訳で、ですが)、ボルヘスの奸計に気がついた。

 この引用はイェイツの「女——若い時と年老いた時」という、化粧をしている女性の詩からのものである。なぜ化粧をするかというと、「べつに見栄をはってるんじゃないんです。あたしは世界ができあがる前の自分の顔を探してるだけ」というわけ。


If I make the lashes dark

And the eyes more bright

And the lips more scarlet,

Or ask if all be right

From mirror after mirror,

No vanity's displayed:

I'm looking for the face I had

Before the world was made.

 ちなみに、これはハムレットがオフェーリアに言う台詞「神が与えた顔になぜ化粧をするのか」をふまえていると思う。

 というわけで、原詩はどちらかというとユーモラスなもので、ボルヘスによる引用を読んだときのような形而上的な雰囲気はかけらもないのだ。

 これは意図的なものだと思う。ボルヘスは、わざと意味をずらして引用したに違いない。というのは、エピグラフの出典名を詩の題名ではなく、『螺旋階段』という詩集名にしているからだ。つまり、「女——若い時と年老いた時」ではバレてしまうと考えたのだろう。どう考えても、確信犯である。

 わたしは、これはDJの発想に近いと思うが、どうか。かっこいいブレイクビーツの元ネタがジョージ・ベンソンだった、という発見と同じような驚きを感じたのだが……。


 ところで、ボルヘスとビオイ=カサーレスのミステリ連作『ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件』(木村栄一訳、岩波書店)が刊行されたそうで、まことにめでたい。abebooksからバカ高い英訳古書を買わなくてよかった、とつくづく思う。

 この連作はずっと気になってたんですよ。だいたい、わが名探偵・石動戯作くんの名前はイシドロ・パロディのもじりですから(イシドウ・パロディってわけ)。図書館に入ったら、1年遅れで読もう


 サミュエル・ベケットのオンライン・リソース

 ベケットというと難解な前衛文学者と思われていて、それだけで敬遠する人も多いと思う。そこで、偏向したベケットファン(わたし)からアドバイスをふたつ。

(1)ベケットの小説は最初から最後まで読まなくていい。

 ブライアン・イーノが「ベケットの小説はホログラムに似ている」ということを言っていて、これはつまり部分に全体が含まれるということである。ホログラムはふたつに割っても、ちゃんとそれぞれ立体映像の全体を再生できる。ただ、ピントがぼけるだけ。

 ベケットの小説も同じで、最初から最後まで熟読玩味しても、1ページだけ拾い読みしても、受ける印象はまったく変わらない。夏目漱石言うところの「筋のない小説」なので(まあ、漱石はこんな小説認めなかったでしょうが)ぱっと開いておみくじみたいに読んでもよい。

(2)ベケットの小説は笑うべきである。

 ベケットの小説は、論理を突きつめていってナンセンスに至る部分が随所にあって、そこは爆笑ものなのだ。これはベケット自身の意図に反していないと思う。

 わたしがいちばん笑ったのは『ワット』(高橋康也訳、白水社)のある部分。主人公ワットは大富豪ノット氏の召使いに雇われる。家には先輩の召使いがいる。ノット氏は三階、召使いふたりは二階に住んでいるのだが、ときどき先輩召使いが三階に行くのが不思議でしょうがない。なにしろ、ノット氏は三階から出てこず、姿も見たことがないので、命令を伝えるすべがないのだから。

 そこでワットは考える。——もしかしたら、先輩召使いの部屋には伝声管があるんじゃないか? なんとか確かめてみたいが、先輩召使いは部屋を出るとき、いつも鍵をかけている。その鍵はいつも先輩召使いのポケットのなかにある。だから、こっそり部屋に入ることはできない。

 考えここに至って、ワットは自分の誤りに気づく。先輩召使いが部屋にいないとき、部屋にはつねに鍵がかかっていて、その鍵はつねに先輩召使いのポケット内にある、という命題は間違いである。なぜなら、もしそうなら、先輩召使い自身、部屋に入れないではないか(錠を開けるにはポケットから鍵を出さなければならない)。もしこの命題が真であるとしたら、先輩は窓から出入りしなければならなくなる

 わたしはこのくだりを読んで、思わず笑ってしまいました。これって本格ミステリのおもしろさに通じるものがある、と個人的には思っている。


 キース・ロバーツ逝去。わたしは彼の熱狂的なファンではないが、65歳で亡くなるのは早すぎる。『パヴァーヌ』が扶桑社から再刊されたばかりだというのに……。ご冥福をお祈りいたします。


 作家や芸術家が早逝すると、「まだこれから傑作を創造したかもしれないのに」という反応が出るのがつねだが、わたしはこれが嫌いである。

 永田耕衣という俳人がいて、阪神大震災で被災したあと、老人ホームに入って、そこで息を引きとった。

 耕衣の弟子という人がたびたび面会に行っていたのだが、この人は、耕衣が痴呆状態になったあと、老人ホームを訪れるたびに、ベッド脇のテーブルの上を探しまわったらしい。

 もしかしたら新しい俳句を書いたんじゃないか、と考えたのだ。

 この話はその弟子自身が書き記していて、ご本人は「耕衣文学を後世に残すための崇高な使命を果たした」つもりでいるらしいが、わたしが耕衣なら、こんなやつには見舞いに来てほしくないよ。ろくなもんじゃないよね。


 リンダ・マッカートニーが亡くなったとき、日テレの某女子アナが番組で、

ポール・マッカートニーがすばらしい追悼の曲を書いてくれることを期待します」

 とコメントしたので、わたしはテレビの前で激怒した。

 たぶん、このバカ女はエルトン・ジョンの〈キャンドル・イン・ザ・ライト〉のことが頭にあったのだろうが、あれは昔の曲の替え歌だ。新しく作曲したわけじゃない。本当に悲しいときに曲なんか書けるかっ!


 わたしはこういう連中が大嫌いである。才能があろうがなかろうが、創造力が枯渇していようがしていまいが、たんに死を悼みたいと思う。


 最近のことだが、


ハサミ男』と『美濃牛』は以前に買わせていただいたのですが、いまだ読めておりません。近いうちに拝読させていただき、ぜひ何か原稿をお願いしたいと思います。

 というメールをいただいて、びっくりした。読んでいないのに、どうして原稿を書かせてやろうなんて思いつきになられたんでしょうか。不思議ですねー。誰か別の人と間違えてるんじゃないかしら。


「WEB本の雑誌」様にとって、わたくしめのところのようなインチキくさいサイトからリンクを貼るのは大変ご迷惑であろうと存じますので、本日記9月分のリンクをはずしました。どうも申しわけありません。このような失礼な真似は二度といたしませんので、今後ともよろしくご指導・ご鞭撻のほどをお願いいたします。(<べつにメールが来たわけではありません。念のため)


 ウォーレン・ジヴォンの2枚組ベスト《I'LL SLEEP WHEN I'M DEAD (AN ANTHOLOGY)》(ELEKTRA)と新譜《LIFE'LL KILL YA>(ARTEMIS)を買ってきて、ずっと聴いている。もう良くて、良くて。しびれますわ。

 2枚組ベストのブックレットのなかで、ジャクスン・ブラウンはジヴォンの音楽をソング・ノワールと呼んでいる。そのとおりですね。


人生はあんたを殺す

そうさ、そう言ったんだ

人生はあんたを殺す

だから、あんたは死ぬ

人生はあんたを見つけ出す

どこに逃げても

「安らかに眠れ」

彼女はそう書く

〈Life'll Kill Ya>

 いやー、こんな歌を歌ってどうしようってんだろう? でも、かっこいいからいいや。


 世の中には抗鬱剤に頼ったり、救いを求めたりする人とかおられるみたいだけど、どうなんですかね。

 わたしは5年ほど前、器質性の鬱病(ウェルニッケ脳症って病気ですけど)と診断された。これはビタミンB1の欠乏によって起こる一種の栄養失調なんだが、そのときの担当医がこんな話をした。

「真冬にホームレスの人が公園で凍死したりするでしょう。普通、体の上に雪が積もって、凍死するほど寒くなったら、じっとしてなんかいられません。ああいう人たちはビタミンB1欠乏による器質性の鬱状態にあるから、凍死するような寒さになっても動きたくなくなるんです」

 そのときは一瞬、なるほど、と思ったのだが、すぐに考え直した。じゃあ、公園や駅前のホームレスにビタミン剤を配ったら、みんな元気に、人生に前向きになるのか?

 人間の心の動きが脳内のケミカル/フィジカルな働きに支配されているというのは、観念を批判するためには有効だけど、脳内物質をコントロールすれば誰でもハッピーになれる、というのは、ちょっと違うと思う。それはもうひとつの観念にすぎないんじゃないかな。

 抗鬱剤を飲めば救われるってのは、神様にすがるのとなんら変わりないとわたしは思いますよ。妙に「科学的」な分だけ、たちが悪いかもしれない。


 ジョージ・コルドロン(でいいのかな、つづりはJorge Cauldron)という人が、ウォーレン・ジヴォンをこう評している。(2枚組ベスト盤のブックレットより)


「彼は昔と同じく、いまも頭がおかしいままだ。ただ、いまは自分が頭がおかしいと知っているだけ」

(“He's just as crazy now as he was then, only now he knows it.”)

 これって重要なことだと思う。「自分は頭がおかしいからだめだ」とか、「自分は頭がおかしいから他人より偉い」とかいうんじゃなくて、たんに「自分は頭がおかしい」と認識することは大切だよね。それ以外に方法はないんじゃないかしら。